判例検索β > 平成18年(わ)第6332号
殺人被告事件
事件番号平成18(わ)6332
事件名殺人被告事件
裁判年月日平成20年9月19日
法廷名大阪地方裁判所
裁判日:西暦2008-09-19
情報公開日2017-10-13 01:37:16
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主文
被告人を懲役3年に処する
未決勾留日数のうち650日をこの刑に算入する。

理由
【犯行に至る経緯】
被告人は,昭和61年4月本件被害者である父A(以下父親という。)と母
Bの次男として出生し,幼少期には父親にも可愛がられながら,兄姉とともに大阪市(以下略)の当時の自宅(以下,単に自宅というときは,この住居を指す。)
において育ち,やがて地元の小学校に入学した。
ところで,被告人は,幼少期より軽度精神遅滞であったため,本来は学習面や生活面においてこれに応じた適切な教育等を必要とする状態であったにもかかわらず,家族や学校関係者にその負因が気付かれないままこのような適切な措置がとられることなく学童期を送ることとなったことから,学校では友人もできず勉強もついて行けなくなり,被告人自身も必要以上にこのことを重荷に感じ,小学4年(平成8年)時に約1か月間不登校になって以来,しばしば学校を休むようになった。それでも,被告人は,中学進学とともに野球部に入って練習に励んでいたが,中学1年(平成11年)の夏ころ,些細なことから父親と喧嘩になった際にその腹いせに風呂場のドアを叩いてしまい,割れたガラスで右手に大怪我をしてしばらく野球部の練習を休むことを余儀なくされたため,その後練習にもついて行けず同部を退部してしまったことから,被告人は,この一件について,父親のせいで野球をやめなければならなくなったなどと考えるようになり,折から,父親が,仕事がうまくいかなくなったり会社を転々とするようになって,次第に家族に当たり散らすようになり,
ときには暴言を吐いたり暴力を振るったりまでするようになっていたため,このことも相まって,父親に対して強い嫌悪の感情を抱くようになっていった。その後,被告人は,前記のような負因とこれに対する周囲の無理解のため,学校環境にも一層適応困難となって,中学2年(平成12年)の春ころからは全く学校へ行かなくなり,自宅の一番奥にある3畳和室(以下被告人居室又は自室という。
)に引きこもった生活を送るようになった。そして,中学卒業後一旦は定時制高校に入学したものの,これもすぐに行かなくなって,以前と同様の引きこもり生活に戻り,やがて自室出入口をバリケード状に家具類で囲んで外からの出入りを困難にするとともに,自室ガラス戸にもカーテンで目張りをするなどして,家族からも孤立した引きこもり生活を送るようになった。
このような被告人に対し,仕事がうまくいっていなかった父親は,余計に苛立ちを募らせるようになり,たびたび,被告人居室の外から

いつまでも部屋の中でじっとしとくな。「お前なんか子供違う。もう早く出て行け。死んでしまえ。

」など
と怒鳴りながら部屋のガラス戸を叩いたりし,これに怒った被告人が「はげ。」などと言い返したりして部屋から出てきた際には,被告人に対し殴ったり蹴ったりする暴行を加えるようになった。しかし,被告人が暴力でやり返すことはなく,母や姉が父親を止めに入ったりしていたが,平成16年ころには,被告人との口論に激高した父親が電源の入った電動ドリルや包丁を持ち出して被告人の方に向かい,母や姉が危うくそれを止めたりしたこともあったことから,被告人は,父親に対し更に憎しみの気持ちを募らせるとともに,父親は興奮すると何をするか分からないとして強く恐れ,同人が自宅にいるときには決して自室から出ないようになった。平成18年1月,父親は,下咽頭癌の手術により,以後呼吸や発声は喉元に空けた気管切開口を通じて行うことを余儀なくされるようになり,同年2月に退院してからは仕事もほどほどにして自宅で療養することが多くなったが,そのような生活の中でも,父親は,たびたび被告人に対し「出て行け。」などと言ったり,それと同様の内容を書いた紙片をガラス戸の隙間などから被告人居室に差し入れたりしたほか,ときには被告人に暴行を加えようとして母親が止めに入ったこともあった。そして,これら父親の言動に恐怖と憎しみを覚えた被告人は,本件犯行の約1か月前である同年9月上旬ころ,父親が暴行を加えてきた場合に備えて,自室にあった折畳み式テーブルからスチール製の脚部(長さ約30cm,重量約210g)を3本取り外し,それらを部屋の中に保管しておくようになった。
かくして,本件当日である同年10月5日,母と姉が仕事に出掛けた後の午前10時30分ころ,突如,父親が,自室にいた被告人に対し,

話しようや。

など
と言いながら,同室のガラス戸をがんがん叩くとともに,被告人が父親の侵入を防ぐため部屋の中からガラス戸を手で押さえるや,今度は同室南側の風呂場前廊下に回り込み,そこから同室南側入口に置かれていたスチール棚をぐらぐらと揺らし始め,その棚に載せていたテーブル等が床に落下する事態となった。これを見た被告人は,かねてより父親の言動に恐怖と憎しみを抱いていたことから,父親が今まさにスチール棚を倒しそこから自室に入ってきて自分を殺そうとしているなどと短絡的に誤って思い込んでしまい,自分の身を守る気持ちに以前からの憎しみの感情も合わさって,とっさに父親を殺害することを決意し,用意してあった前記テーブルの脚のうちの1本を手に取って自室から押し出ると,風呂場前付近に立っていた父親の頭部めがけてそれを振り下ろして殴り付け,驚いて逃れようとする同人の後頭部をめがけて更に同テーブル脚で多数回にわたり殴り付け,その結果,同人に顔面挫滅創,鼻骨骨折,後頭部挫創等の傷害を負わせるに至った(但し,以上の行為については,誤想防衛に当たり犯罪は成立しない。。

【有罪と認定した事実】
被告人は,同日午前10時35分ころ,父親(当時56歳)が上記の激しい暴行を受けたことにより這々の体で自宅風呂場隣にある和式トイレ内に逃げ込み,便器左側の壁にもたれるようにして仰向けに倒れ込んだことから,その様子を見て,父親がもはやその場で自己に暴行を加えてくる可能性がなくなったことを認識しながら,この際とどめを刺しておこうと改めて父親殺害を決意し,台所から文化包丁(刃体の長さ16.7cm。
)を手に取ってトイレに舞い戻るや,倒れ込んだまま動
かない状態の父親に対し,
文化包丁でその左側頭部付近めがけて2回突き刺したが,
頭部刺創の傷害を負わせたにとどまり,父親を殺害するには至らなかった。なお,被告人は,前記のとおり軽度精神遅滞により是非弁識能力や行動統御能力がもともと相当程度制限されていたことに加え,前記のような引きこもり生活の中で特に行動統御能力がさらに減弱した結果,上記犯行当時,心神耗弱の状態にあった。
【事実認定に供した証拠】
(省略)
【争点に対する判断】
第1

本件の争点と当裁判所の判断
検察官が主張する本件公訴事実の概要は,次のようなものである(便宜上,各
実行行為に番号を付する。。

被告人は,前認定の日時・場所において,かねてから不仲であった父親が,日ごろ自室にこもりがちであった被告人の自室に無理矢理入ろうとしたことに激高して,父親を殺害しようと決意し,①ルの脚で多数回殴打し,さらに,②を手指で塞ぎ,③同人の頭部等をスチール製のテーブ仰向けに転倒した同人の頚部気管切開口文化包丁で同人の側頭部を刺突し,よって,即時同所において,同人を,気管切開口閉塞により窒息死させて殺害した。これに対し,弁護人は,被告人が①③の実行行為に及んだこと,③の実行行為時に殺意を有していたことは争わないものの,(1)

被告人が②の実行行為(以

下指塞ぎ行為という。
)に及んだ事実はなく,この点に関する捜査段階での
被告人の自白には任意性・信用性が認められない,(2)
告人には殺意はなかった,(3)

①の実行行為当時,被

本件各実行行為当時,被告人が父親から自室に

侵入され暴行を加えられる急迫不正の侵害は存在したものの,殺害されるまでの状況にはなかったが,被告人は殺害されるものと誤信し自己の生命・身体を防衛するため本件各行為に及んだものであるから,各行為は誤想防衛に当たる,(4)本件各実行行為当時,被告人は軽度精神遅滞により心神耗弱の状態にあった,などと主張している(なお,このうち(4)の主張については,検察官も論告においては特に争っていない。。

以上のような当事者の主張に対し,当裁判所は,判断の帰結として,前記認定のとおり,(a)

②の実行行為は証明不十分であるから認定できない,(b)


の実行行為については,殺意を持って行われたものと認められるものの,誤想防衛行為に当たるから犯罪は成立しない,(c)

③の実行行為については,これを

認定できるものの,父親死亡の結果との間に因果関係が認められないから,殺人未遂罪が成立するに止まる,(d)

しかも,③の行為当時,被告人は心神耗弱の

状態にあったという結論に達したので,以下,その理由を示す。
第2
1
指塞ぎ行為について
争点に関する証拠構造
検察官が公訴事実中で父親死亡の死因を形成した殺人実行行為として主張する指塞ぎ行為(実行行為②)については,本件全証拠を通覧しても,これを証する積極証拠としては,この点に関する捜査段階での被告人の自白(検察官調書〔乙4〕
。以下指塞ぎ自白という。
)しかないことから,結局のところ,
この実行行為が認められるか否かは指塞ぎ自白の信用性の如何に係っているといえる(なお,弁護人は,被告人の精神遅滞に配慮しない警察官の取調べ方法と警察官が被告人に発した

お前,死刑になるべきや。

との発言によって指塞ぎ自白の任意性にも疑いが生じる旨主張するが,後述の被告人の精神遅滞の程度等を考慮に入れても,なお弁護人が主張する事情のみで指塞ぎ自白の任意性が損なわれるとは解されない。。

よって,以下その信用性について検討する。2

指塞ぎ自白の要旨
被告人の検察官調書〔乙4〕によれば,指塞ぎ自白は,要旨,以下のような内容である。
私にテーブルの脚で頭を何度も殴られた父親は,トイレに逃げ込み,便器の左側にもたれかかるような格好になった。私も父親ともみ合ってトイレに入ったので,体勢を崩して便器の右側に尻を付き,上半身は半分くらい傾いた状態で座るような感じになった。その後,父親がトイレットペーパーで頭を押さえた記憶がある。父親はだいぶ弱っているようだったが,その後私が右手に持っていたテーブルの脚を両手でつかんできたので,私が『離せ。』と言うと,父親はすぐ手を離した。父親にまだテーブルの脚をつかむ力が残っていることに驚いた私は,今父親を殺しておかないといけないと思ったが,殴り続けて腕が疲れていたし,父親は血まみれでこれ以上殴って血が出るのも嫌だったので,父親がガンの手術の結果喉に開けていた穴を塞げば息ができなくなって死ぬと思い,左右どちらかの手の親指を穴に当て残りの指を父親の首の横に当てるようにして,20秒くらいその穴を塞いだ。その間,父親が私の手をどけようとしたりすることもなく動かなかったので,もう死んだだろうと思い一旦穴から手を離してトイレから出た。しかし,その後,もしかしたら父親はまだ死んでいないかも知れないと思って不安になり,やっぱりまたとどめをさしておかないといけないと思い,包丁で父の頭の横や首付近を2回突き刺した。。
3
指塞ぎ自白の信用性
(1)

指塞ぎ自白の出現時期に関する疑問
以上見たような指塞ぎ自白については,まずもってその現れ方に重大な疑
問がある。
別紙取調べ状況一覧表は,実質証拠たる被告人の供述調書〔乙1∼6〕に加え,被告人の取調べ状況・供述経過の立証趣旨の下に取り調べた捜査関係書類〔甲25,26,乙17,弁8〕被告人の供述調書・供述書類〔乙7∼16,,
18∼29〕を総合し,被告人の逮捕以来起訴に至るまでの被告人の取調べ状況・供述調書作成状況を一覧表にしたものであるが,上記供述調書類やこの一覧表を見ても分かるとおり,被告人は,本件により緊急逮捕された平成18年10月5日以来一貫して自己が父親を殺害したことを認めていたものであるが,その間,逮捕から勾留10日目の10月16日までは,父親殺害の実行行為として,終始,テーブル脚による殴打行為(実行行為①)と文化包丁での刺突行為(実行行為③)のみを供述し,延長後の勾留初日の同月17日に被告人の自宅で行われた犯行再現の実況見分に至って,突如,指塞ぎ自白を内容とする犯行再現を行い,その後は供述調書中においても,捜査段階で一貫してこの自白を維持したものである(なお,被告人は,公判段階では,

指塞ぎ行為については全然記憶にない。「指塞ぎ行為の再現動作は警察

官から指示されてした。
」などと供述する一方で,(指塞ぎ行為を)…やっ

てないとはいえない。

などと曖昧な供述もしている。。)
しかしながら,前記指塞ぎ自白の要旨からも明らかなとおり,指塞ぎ行為は,(a)

かなり特徴的な殺害行為であることに加え,(b)

必ずしも瞬間

的又はごく短時間で終息するような行為ではなく,相当の時間的経過を伴う殺害行為であって,(c)

しかも,テーブル脚による殴打行為の結果が指塞

ぎ行為の動機を形成し,また,指塞ぎ行為の結果が更なる包丁刺突行為の動機を形成したといった相互連関の関係性の強い行為の発展段階を辿っているのであるから,むしろ前後の実行行為とともに一連の行為として語るのが自然な内容であり,さらに,(d)

この指塞ぎ行為だけ秘匿しておかねばなら

ないような理由や事情は本件全証拠をもってしても全く見出し得ないのであるから,被告人が真に指塞ぎ行為に及んでいたのであれば,何故,逮捕以来繰り返し取調べを受けていながら,10日以上も指塞ぎ自白を語ることなく終わったのか,甚だ不可解なことであるといわざるを得ない。
もっとも,
指塞ぎ自白出現後の被告人の供述調書中には,
その理由として,
今まで刑事から『首を絞めたか』と聞かれなかったし,口ではうまくいえなかったから供述しなかったが,犯行再現で実際の動作をやってみたらうまく説明することができた〔乙11〕とか,

刑事から聞かれなかったので,犯行再現をしてみるまで忘れていた。〔乙28〕とかいうような供述記載が

存在しているが,両者の説明内容が異なっていることはさておいても,指塞ぎ行為が概括的にせよ説明困難な事柄であるとは-被告人の後記知的能力を考慮しても-到底思われないし,また,これが聞かれないから忘れてしまうというような事柄であるともおよそ考えられない(なお,被告人は緊急逮捕時の弁解録取においてテーブル脚による殴打と包丁による刺突のみを供述しているが,この段階では,捜査官の側もまだ現場の状況等を十分に把握できていないことから誘導の余地がなく,これは被告人の自発的供述であると解さざるを得ないが,この段階で指塞ぎ行為を自白していないことは特に重要である。
)ことから,いずれも後付けの説明であって,説得力に乏しいというほかない。
(2)

犯行再現に至るまでの取調べ経過に関する疑問
そればかりか,指塞ぎ自白については,その犯行再現に至るまでの取調べ
経過において,捜査官の行動に甚だ不可解な事実が存在している。逮捕翌日の10月6日に父親の司法解剖を担当したC医師は,当公判廷における証人尋問において,解剖の場に立ち会ったD刑事に対し,
遺体の気管内の血液量が少量であることから,これだけで窒息死するというのはちょっと難しい。父親は気管切開口でしか息ができないのであるから,被告人が気管切開口を塞いだ可能性がある。これが重要な証拠になってくるので,被告人に対し,『気管切開口を塞いだら息ができないことを知っているのか,指とかで塞いだ可能性があるのか。』ちゃんと聞いてくれ。など解剖中に指示したと明確に証言しているのである。C医師のこの証言は,その立場の中立性,証言内容の説得性に徴し,十分に信用することができる。ところが,この指示を受けたとされる当のD刑事は,当公判廷における証人尋問において,林医師から上記のような具体的指示を受けたか否かについて曖昧極まる供述に終始していることに加え,同刑事の差配の下に実際に被告人の取調べを担当したE刑事も,何故か犯行再現の実況見分までは指塞ぎ行為の存否については被告人に全く尋ねなかったとし,検察官の立場から被告人の取調べを担当したF検事とともに,この間の取調べ経過につき,ほぼ一致して次のとおり証言しているのである。
死体解剖の結果,父親の死因が窒息であることは認識していたが,被告人が『父親の胸ぐらをつかんだ』旨供述していたので,それが窒息の原因であると思っており,指で塞いだ可能性については全く考えていなかった。犯行再現において被告人が自発的に父親の気管切開口を指で塞ぐ行為を再現したので本当に驚き,その当日又は翌日の取調べにおいて,すぐその旨の供述調書を作成した。しかしながら,上記捜査官らが,死因が窒息死であることを明確に認識していながら,犯行再現に至るまで,上記胸ぐらをつかんだ程度の供述に甘んじ,被告人が何らかの積極的手段により意図的に被害者の気道を閉塞して窒息させた可能性を全く検討しなかった,そもそもそのような発想すらなかったなどというのは,捜査手法や捜査官の発想として明らかに不自然であるばかりでなく,前記C医師の証言内容とも明白に矛盾するものであって,このような捜査官らの証言態度等に鑑みると,捜査官らにおいて被告人が自発的に行ったと一様に供述する指塞ぎ行為の犯行再現やそれに続く指塞ぎ自白についても,
これが捜査官らの強い誘導に基づくものでないのか具体的には,

犯行再現まではあえて供述を求めず,犯行再現において秘密の暴露的に指塞ぎ行為を指示してさせたのではないのか)強い疑念を抱かざるを得ないのである。
(3)

指塞ぎ行為の犯行再現やその後の指塞ぎ自白の変遷状況に関する疑問さらに,被告人が犯行再現の場で初めて指塞ぎ行為を行った後の供述経過
についても疑問がある。
すなわち,(ア)

犯行再現時の被告人の再現状況〔乙4の添付写真⑥〕を
見ると,被告人は立ったまま,右手で,親指を父親の気管切開口に当て,残りの4本の指を父親の首の後ろに回すようにして指塞ぎ行為をしているのに対し,(イ)

犯行再現同日,再現直後に行われた取調べで作成された検察官

調書〔乙11〕中では,被告人は,便器右側の部分に座るような姿勢で,左右どちらかの手で,
手を開いて親指と人差指がそれぞれ首の上部左右に当たるようにして喉の穴をぐっと押さえたと大きく供述が変転しており,(ウ)さらにその翌日の10月18日に作成された警察官調書〔乙28〕では,被告人は,右側を下に父親と重なるように倒れた状態で,右手で,父親の首をつかんで親指の内側で首の穴を20∼30秒塞いだとまた変遷し,(エ)
1
0月21日付けの検察官調書〔乙4〕では冒頭の供述要旨で述べた供述内容となり,塞いでいた時間が20秒くらいと特定されるに至っている。このうち特に重要なのは,①


指塞ぎ行為をしたときの被告人の姿勢と,

気管切開口の押さえ方に関する供述の変遷である。
まず前者については,

上記のとおり,犯行再現の場では立ったまま指塞ぎ行為をしたように再現を行っているのに対し,その後の各供述調書ではいずれも便器右側に何らかの形で座った状態で指塞ぎ行為をしたかのように供述している。そして,この点の変遷については,その後の検察官調書〔乙4〕中に

再現の時は狭かったので,立ったままでやりました。

と弁解供述が存在しているところではある。しかしながら,捜査官らの証言によれば,そのとき被告人が初めて指塞ぎ行為を再現したことから一様に驚き,写真撮影を行ったというのであるが,その証言が真実であるならば,当然捜査官としても,今までの疑問が解消され,致死的実行行為が初めて被告人自らの行為によって明らかになったのであるから,写真撮影の形で初めての再現状況を保全する以上,当然,その再現が間違いないか繰り返し被告人に確認を求めたはずであろう(そうでなければ,いやしくも殺人のような重大事件の捜査など担当できまい。。)
真にその場所が狭かったのであれば,なおさら狭い状況の中でも犯行が可能であることを明らかにしなければならなかったはずであり,そのような写真が一切撮影されていないということは,再現当時,本当は座った状態で指塞ぎ行為を行ったのだが,狭いから便宜的に立った状態で写真撮影に応じたというような事情はなかったと考えるのが素直であり,上記

再現の時は狭かったので,立ったままでやりました。

などという弁解は捜査官の誘導による後付けの弁解でしかないと考えるほかない。そして,真に被告人が指塞ぎ行為に及んでいたのであれば,その行為当時の姿勢について短時間でかくも大きく変転するようなことは考えられないのであって,これはとりもなおさず,指塞ぎ自白が真実の体験に基づいていないものであるからにほかならないと考えざるを得ない。そして,上記②の気管切開口の押さえ方に関する前記のような変転状況についても,また同様のことを指摘することができる。
(4)

指塞ぎ自白の自然性・合理性に関する疑問
以上見たような疑問点に鑑み,改めて指塞ぎ自白の自然性・合理性につい
て検討を加えると,テーブル脚で一方的に多数回にわたり父親の頭部等を殴りつけ,さらに包丁で頭部を2回も刺すという指塞ぎ行為の前後に位置する実行行為の激烈な行為態様からは,当時被告人が極めて興奮した精神状態にあったことが容易に窺われるが,そのような被告人が,それらの各行為の間に,

殴り続けて腕が疲れた。これ以上血が出るのも嫌だ。

などという悠長な理由から,気管切開口を親指で少なくとも数十秒もの間塞ぎ続けるという極めて冷静沈着な行為に出たというのは,短時間内の連続した行動としてかなり不自然の感が否めず,また,指塞ぎ自白によれば,被告人は指塞ぎ行為の直前には父親からテーブルの脚を両手でつかまれたというのであるが,このような予想外の抵抗に直面した被告人が,殺害の手段として,父親を死に至らしめるまでに比較的長い時間を要し,しかもその間父親から手をつかまれるなどの抵抗を受けやすい姿勢を維持する必要のある指塞ぎ行為を選択したというのも,やはり不自然であるとの誹りを免れない。さらに,直前にテーブルの脚を両手でつかみ返すこともできた父親が,その直後に被告人から指一本で気管切開口を塞がれて呼吸の途が絶たれた際にも何らの防御反応〔C証言〕も示さなかったというのも,不合理といわざるを得ないように思われる。
(5)

指塞ぎ自白と法医学的知見との整合性に関する疑問
そして,当裁判所が重視せざるを得ないのは,指塞ぎ自白が窒息死の機序
に関する法医学的知見に真に整合性を有しているかである。
父親の司法解剖を担当した前記C医師の証言によれば,死体の種々の所見から父親の死因は窒息死であると判定されるが,本件においては,その窒息に至った機序としては,①


指などで意図的に気管切開口を塞いだ可能性,

テーブル脚による殴打や包丁での刺突により流れ出た多量の血液が付着
した衣服が張り付いて気管切開口が塞がった可能性,③
それらの暴行によ

り父親の首がうなだれて気管切開口が塞がれた可能性の三つの可能性がある旨証言し,さらに,窒息死に至る機序の説明として,気管切開口を閉塞するような方法で人を窒息死させるには通常5分程度必要であるが,被害者がそれに先立ち暴れ回っていたような場合には閉塞後1分から1分半で死亡することもあり得るし,さらに,被害者がもうぐったりして,息も絶え絶えな状態であった場合には閉塞後20秒程度でも窒息死するに至ることはあり得る旨証言している。
この証言によれば,指塞ぎ自白は窒息死の法医学的機序とも一見矛盾しないようにも思われる。
しかしながら,改めてC証言を子細に検討すると,同医師は,(a)
窒息

から死亡に至る過程には,
無症候期という平均1分程度の何らの症状も
出ない時期を経て,
呼吸困難期という1分から3分程度の呼吸が苦しい
時期に至り,やがて意識が無くなって,4分を過ぎてから痙攣を起こし,5分程度で死に至るという過程をたどること,(b)
前記証言中1分から1分半で死亡する場合というのは,上記呼吸困難期と同様の状態に至ってからの時間を指していること,(c)

したがって,最後に被害者がぐったりし

ているところ,換言すれば,
もう最終的に窒息の機転が働いて,意識がなくなったような状態に近いところや,被害者が散々運動して意識がぐたっとした状態,あるいは,
部屋の中をばたばた走り回って逃げまくったり,あるいは胸ぐらをつかまれて,一生懸命防御しているとか,上から馬乗りになられて,それを防御しているだとか,かなりの運動量の状態で指塞ぎ行為をしたということであれば,1分以内でも窒息死することはあり得るが,まだ被害者が一生懸命抵抗しているときや意識がはっきりしているときに何らかの形で指塞ぎ行為に出てもその程度の時間では窒息死しないこと,(d)

本件の場合,被害者が頭を殴られて脳震盪を起こし意識がなくなって
も前同様の短時間で窒息死するし,本件被害者の場合には気管切開口からの呼吸であるため相当逃げて低酸素状態になっているとなおさらではあるが,しかし他方で,被害者の意識がもうろうとした状態にありながら被害者がテーブル脚をつかんでくるというのは,考えにくいこと,以上のような法医学的知見も証言しているのである。
このような知見に鑑み,改めて前記検察官調書〔乙4〕中の指塞ぎ自白の内容を検討すると,①

父親は確かに被告人にテーブル脚で多数回殴打され

たとはいえ,父親が広範囲に走り回って逃げ回っていたなどの供述は全くなく,むしろ,被告人は風呂場前に立っていた父親に対し最初の一撃を加えた後,
その後トイレ前に逃げた父親に対し多数回殴打したというのであるから,実況見分調書〔甲14〕の添付図面第4号等に鑑みても,父親の移動距離はせいぜい2∼3m程度のものであること,②

父親は,トイレ内に倒れ込んで

からも,なおトイレットペーパーで頭を押さえたり,両手で被告人が持っているテーブル脚をつかんできたりしていること,③
そして,前記のような

被告人が指塞ぎ行為に及んだ動機に照らすと,被告人は,父親がテーブル脚を放してからさほど時間を置くことなく指塞ぎ行為に及んでいることが窺われるのであって,以上のような指塞ぎ自白の内容に照らすと,前記林医師が想定している気管切開口閉塞後1分から1分半程度で人が窒息死するケースに,上記自白内容に現れている事態が該当するかかなり疑問であり,まして閉塞後20秒程度で-時間の記憶に関してはあまり厳格なものを要求できないにしても,前述のとおり,被告人の捜査段階の自白では後になるほど時間が短く限定されるに至っていることは見逃せないし,また,1分以上の時間経過を20秒程度と錯覚することは考えにくい-人が窒息死するような極限的なケースに上記事態が該当するのかますます疑問である。
以上によれば,指塞ぎ自白の内容が窒息死に至る法医学的機序に果たして整合性を有するかについては,重大な疑問が残るといわざるを得ない。(6)

小括
以上のとおり,指塞ぎ自白には,その信用性に種々の重大な疑問があるか
ら,これに依拠して事実認定を行うことはできず,他に指塞ぎ行為を認めるに足りる証拠もないから,結局,検察官の指塞ぎ行為に関する主張は証明不十分であるというに帰する。
第3

誤想防衛ついて

1
被告人の責任能力
被告人の責任能力については,検察官が論告中で本件当時被告人が心神耗弱の状態にあったことを認めたことから,争点としては雲散霧消したものの,なお弁護人主張の誤想防衛について判断するに当たっては,被告人の責任能力の存否・程度が誤想防衛判断の当然の前提として大きな影響を及ぼすことから,ここでまず被告人の責任能力について概観しておく。
その鑑定手法の妥当性・推論過程の合理性に照らし信用性に疑いを容れる余地のない精神鑑定人G(H大学大学院医学系研究科精神医学教室教授)及び同I(H大学医学部精神医学教室准教授)の共同鑑定及び上記I医師の公判証言によれば,本件犯行当時の被告人の精神状態及び責任能力は,以下のようなものであったと認められる。

被告人は,原因不明の軽度精神遅滞の精神障害を有しており,その人格的な特性として元々欲求不満耐性や衝動制御能力が低かったが,家族など周囲の者にそのような病気を理解されず健常者として扱われたために失敗と失望を繰り返し,社会に適応できなくなって引きこもりの生活を送るようになる中で,その欲求不満耐性や衝動制御能力はさらに低くなった。そして,父親からたびたび暴言や暴力が加えられる生活の中で,被告人は父親に対する攻撃性や反感を募らせたが,
父親に対する恐れがそれを上回って大きいために,その攻撃性は抑えられていた。イ
しかし,被告人は,軽度精神遅滞による低い問題解決能力のため,父親からの暴言や暴力から身を守る術を見出せずにいたところ,本件当日,父親の言動に対し,軽度精神遅滞の影響やこれまで暴行を受けてきた経験から,父親に殺されると思い,自己の身を守る気持ちと父親に対する憎しみの感情の混在した状態で,被告人は父親に対し殺害行為に出るに至った。


そして,このとき,被告人は,是非弁識能力や行動制御能力が相当程度減退した状態,中でも特に後者が著しく減退した状態にあったといえ,これらを総合すれば,被告人は心神耗弱状態に陥っていたと評価できる。
2
正当防衛状況の存否
以上を踏まえ,弁護人主張の誤想防衛の成否について判断する。まず,防衛行為の前提となる正当防衛状況の存否から検討するに,本件においては,その客観的状況と主観的状況との間に齟齬が認められるので,順次その内容を検討することとする。
(1)

客観的な正当防衛状況の存否
本件直前の父親の一連の行動(被告人の部屋のガラス戸を叩き,さらにス
チール棚を大きく揺らすなどしたこと)がこれまでの暴行時の父親の行動傾向と類似はしているものの,他方で,父親がこれまで被告人の部屋に入り込んで同人に暴行を加えたことは一度もなかったことや,本件に際して被告人は父親に対して同人を激高させるような言動は特にしておらず,父親も被告人に対して

話しようや。

などと従前の暴言の類と比べても穏やかに話し掛けていることに照らすと,当時父親には,無理やり被告人の部屋に入り込んで同人に暴行を加えるつもりまではなかったと認めるのが相当である。したがって,客観的に見る限り,父親からの被告人に対する急迫不正の侵害はなかったものといわざるを得ない。
(2)

主観的な正当防衛状況の存否
テーブル脚による殴打行為時
(ア)

しかし,客観的には正当防衛状況が認められなくても,被告人が主
観的に正当防衛状況が存在するものと誤信し,さらにその他の正当防衛の要件も満たせば,誤想防衛行為として,もはや故意責任は問えないというべきである。この点,被告人は,当公判廷において,テーブル脚で父親を殴打しようとした時点での認識について,
父親がスチール棚を揺らしてきて,その上に載せていたテーブルが落ちてきたとき,そのときはほかの家族が誰もいなかったし,父親が部屋に入ってきて私を殺そうとしているのだと思い,殴らないと殺されると思って,テーブルの脚を持ち部屋を出て父親の頭部をそれで殴り付けた。などと,父親からの不正の侵害が存在すると誤信していた旨の供述をしており,前記精神鑑定人に対しても同様の陳述をしているので,この被告人の誤信供述の信用性が問題となる。
ところで,前記認定・判断のとおり,被告人は軽度精神遅滞のために小学校高学年程度の知能しかなく,その状況認識能力も健常者と比べて劣っているため,本件当時も心神耗弱状態にあったものであるが,そのような特殊事情が存することを十分念頭に置きつつ本件について検討を加えると,前記認定のとおり,当時,父親は被告人の部屋のガラス戸を揺さぶるなど,それ以前に被告人に対して暴行を加えたときと同じような行動を採っており,さらに父親は被告人の部屋の入口を塞いでいるスチール棚を大きく揺さぶったものであるが,このような恐れと憎しみの対象である父親が自室の周囲から激しくその平穏を害する状況を目の当たりにした被告人が,これまでに父親から受けた数多くの暴行の経験から,今まさに父親が部屋に入ってきて自分に暴行を加えようとしているのだと咄嗟に思い込んでしまったとしても,特に不可解なことだとはいえないように思われるし,これに加え,かねてから父親が包丁や電動ドリルを持ち出していたことから,同人を何をするか分からない性格の持ち主だと思っていた被告人が,いつも父親を止めてくれる母や姉が不在の中,父親が自己に暴行を加えるために部屋にまで踏み込んでくるという未だかつてなかった異常事態を前にして,父親が単に暴行を加えるにとどまらず自分を殺そうとしているのだなどと短絡的に考えてしまったとしても,あながち不合理とまではいえず,その供述を虚偽であると決めつけることはできないと解される。そして,この点については,前記のとおり,G・I鑑定も,精神科医の立場から,
被告人は,本件直前の父親の言動に対し,軽度精神遅滞の影響やこれまで父親から暴行を受けてきた経験から,父親に殺されるものと思い,自己の身を守る気持ちと父に対する憎しみの感情の混在した状態で,父親を殺害するに至ったものである旨同様の見解を示しているところである。そうすると,
上記被告人の誤信供述にはそれなりの合理性が認められ,
その他その信用性に疑いを差し挟むような事情は特に見当たらないことから,同供述を虚偽であるとして排斥することはできない。
そして,以上によれば,被告人は,当時自己の生命に対する父親からの侵害が切迫していると誤信していたものと認定するのが相当であって,その誤信に基づいてテーブルの脚を持ち出しているのであるから,G・I鑑定人両名の上記見解も示しているように,テーブルの脚で殴打した際,被告人に父親の暴行から自己の身を守る目的,すなわち防衛の意思があったこともまた明らかである。
(イ)

これに対し,検察官は,テーブル脚を持って自室を出たとき,被告
人は,父親が凶器を何も持っておらず自己に対して攻撃的行動に出ようともしないのを見ているのであるから,父親から攻撃を加えられることを誤想していないはずである旨主張するが,I医師も証言するとおり,上記のとおり状況認識能力が健常者よりも劣り,なおかつ父親に殺されてしまうとの考えに囚われて激しく動揺していたと窺われる被告人が,自室を出て父親に攻撃を加えるまでのごく短時間に,検察官が挙げるような父親の状況を適切に認知し,それに対応して妥当な行動をとることを選択できたかについては多大の疑問が残る。したがって,検察官の上記主張は理由がない。
(ウ)

さらに,本件において,被告人は,父親に対抗するために予めテー
ブルの脚を外しておくなど,父親からの暴行を予期しているかのような行動をとっているし,また,被告人はかねてから父親に憎しみの感情を抱いていたことに加え,本件に際しては機先を制して攻撃を開始し,その後も一貫して一方的に激しい暴行を加え続けているのであるから,本件前から被告人は父親に対し積極的に攻撃を加える意図を有していたかのようにも見える。したがって,これらの点から侵害の急迫性が否定されることはないかについても検討を加えておく必要がある。
そこでまず,侵害の予期の点から検討すると,被告人とても,これまでの経験を通じて,自室の外に出ると父親から暴行を加えられるかもしれない,場合によっては父親が自室にまで入り込んでくるかもしれないということについては,漠然とにせよ事前に予期できていたものと思われる。そこで,このような場合に,被告人に予想される侵害を回避すべき義務があったか否かが問題となるが(なお,この点については,橋爪隆・正当防衛論の基礎〔平成19年〕305頁以下,佐伯仁志正当防衛と退避義務小林充先生・佐藤文哉先生古稀祝賀刑事裁判論集上巻〔平成18年〕88頁以下等参照)
,一般的に自宅や居室に留まっている場合に侵
害回避義務を課することには慎重であらねばならないところ,前掲の関係証拠によれば,(ア)

本件においても,被告人は,自室の入口を塞い

で出入りを困難にしていたことや本件以前に被害者に自室に入り込まれ暴行を加えられたことがなかったことから,自室を安全の確保された場所であると考えていたこと,(イ)

被告人は,父親が自宅で過ごしてい

るときには,父親から声を掛けられても,安全圏である自室を出ないようにして同人との接触を避けているし,また,日頃から母親にも自分に話し掛けないよう父親に言ってほしい旨頼んだりもして,何とか父親との接触を避けようとしていたこと,(ウ)

それでも自室の外で父親と遭

遇し暴行を加えられたときでも,被告人は,父親に抵抗しないことによってその暴行がエスカレートするのを防いだりしていたこと,(エ)

記のとおり,被告人は,軽度精神遅滞を患い,周囲からそれを十分理解されなかったために引きこもり生活に入って何年にもわたり社会との接触を完全に断ってきて,問題解決能力もかなり劣っていたため,外部者に対して自己の現在の状態を適切に説明して具体的な救済を求めることは著しく困難であったと解されること,(オ)

そして,被告人自身は,

前記のとおりいつか父親が自室にまで入り込んできて暴行を加えてくるかもしれないことくらいは漠然とにせよ予期できていたとしても,それ以上にそれが将来のいつなされるかについては全く予期できない状況にあったこと,以上のような諸事情が認められるのであって,これらの事情に鑑みれば,被告人は,従前から父親からの暴行を回避するために自分なりに手を尽くしていたものと認めることができ,それ以上に,被告人に対し,引きこもり場所である自室から退去したり警察等の外部機関に救済を求めたりするなどの具体的な結果回避措置を採ることを要求するのは,橋本医師も証言するとおり,やはり酷であるといわざるを得ないように思われる。したがって,侵害回避義務の存否という観点からしても,前記の程度の侵害の予期しか認められない本件の下において,その予期の存在ゆえに侵害の急迫性を否定することは相当ではないと解される。
次に,被告人が父親からの侵害の機会を利用し積極的に父親に対して加害行為をする意思で侵害に臨んだか否かについて検討しても,確かに,被告人は,犯行以前から,被害者に対し使用することを想定してテーブル脚を外し準備していたものの,これまで何度も父親から暴行を受けてきた中でも被告人が暴力で反撃したことはないことや,テーブル脚を外して準備した後も,自宅で父親と二人で過ごす時間は長く,父親を攻撃しようと思えばその機会はあったのに,被告人がそれを全くしなかったことなども考慮すれば,上記の被告人の準備は,あくまで被害者の攻撃に対し防御するためのものであったと認めるのが相当であって,本件以前から侵害の機会を利用して父親に対し積極的な加害に及ぶ意図まで有していたといえるかについては,かなり疑わしいというべきである。そして,仮にそのような積極的加害意思が認められるとしても,前記のような侵害回避義務を肯定することができない本件事実関係の下においては,その意思の存在ゆえに侵害の急迫性を否定することには,なお疑問が残るといわざるを得ない。

文化包丁による刺突行為時
次に,上記のとおりテーブル脚での殴打行為の時点で存在した主観的な正当防衛状況が,文化包丁での刺突行為の時点においてもなお持続していたかが問題となるが,被告人の公判供述によれば,前認定のとおり,父親は,被告人からテーブルの脚で頭部を多数回殴打されてトイレ内において被告人の目の前で倒れ込み,その後は少しの間テーブル脚をつかみ返したくらいで,それ以上に攻撃的な言動に出ることもなく,その後はほとんど動きもしなかったというのであるから,この時点では,父親からの侵害が切迫していると被告人に誤信させるような外部的情況は既に失われていたというべきであり,しかも,被告人自身そのような父親の様子を間近で観察していたのであるから,被告人の状況認識能力を考慮に入れても,この段階でもなお,被告人が正当防衛状況を誤信していたと見る余地はないといわざるを得ない。
そうすると,文化包丁による刺突行為については,主観的な正当防衛状況が認められず,誤想防衛が成立する余地はないというべきである。3
防衛行為の相当性
そこで最後に,主観的な正当防衛状況に対して被告人がテーブル脚で父親の頭部等を多数回殴りつけたことが,防衛行為としての相当性の範囲内であると認められるかについて検討する。
被告人の認識によれば,父親は今にも自分を殺すために自分の部屋に踏み込んできそうな状況であったというのであるから,そのような被害法益の種類や侵害の急迫性の緩急等に照らせば,被告人としては自己の生命を守るために相当広範な防衛行為をなし得るものと解されるのであって,前述のとおり当時被告人の行動統御能力が著しく制限されていたことも併せ考慮しても,テーブル脚で父親の頭部等を多数回殴打した行為(なお,上記のとおり,弁護人はその時点での殺意を争うが,先端部が一部鋭利である金属製のテーブル脚を凶器にして,身体の枢要部である頭部を力任せに何回も殴り付けたという犯行態様を見れば,被告人がその時点で既に父親に対して確定的殺意を有していたことは明らかである。
)が,なお防衛行為として相当な範囲を超えるものとまではい
えないと認められる。

4
小括
よって,被告人の本件各行為のうち,テーブル脚で父親を殴打した点については誤想防衛に当たり,犯罪が成立しないが,文化包丁で父親を2回刺突した点については,犯罪の成立を阻却する事情は認められない。

第4

刺突行為と死亡結果との間の因果関係
最後に,被告人が包丁で父親の頭を突き刺した行為と父親が死亡した結果との
間に因果関係を認めることができるか否かについて検討する。
前記のとおり,父親の司法解剖を担当したC医師は,父親の死因は窒息死であるとし,本件で父親が窒息に至った機序としては,①指で塞いだ可能性,②
を塞いだ可能性,③

被告人が気管切開口を手

血液がべっとりと付着した衣服が張り付いて気管切開口
父親の首がうなだれて気管切開口が塞がった可能性の三つの可能性が考えられる旨証言しており,このうち,①の可能性については前記のとおり証拠上認定できないために否定されるが,父親の衣服への血液の付着状況や発見時における父親の衣服の装着状態に照らせば,②③の可能性については,いずれも否定することができず,本件全証拠によっても,これら②③のいずれが本件窒息死の原因であったとも決することはできない。
そこで,上記刺突行為と父親の死亡結果との間の因果関係の有無について検討すると,C証言によれば,少なくとも刺突行為当時父親がまだ死亡していなかったことは認められるものの,被告人が刺突行為に及ぶ前に,テーブル脚での殴打行為のみによって既に②のように血液が付着した衣服が張り付いたり,あるいは,
③のとおり父親の首がうなだれたりすることによって気管切開口が塞がっていた可能性,言い換えれば,父親が窒息死するに至る因果経過に刺突行為が全く寄与しなかった可能性(なお,前記C医師は,上記刺突行為のみで被害者が死亡することはあり得ないと証言している。
)を証拠上否定することができないのであっ
て,結局,上記刺突行為と父親の死亡結果との間に因果関係を認めることはできない。
したがって,被告人は,父親の死亡結果については帰責されず,2回の刺突行為により父親の生命に具体的危険を生ぜしめたことについて殺人未遂の責任を負うにとどまる。
第5

被告人の罪責に関する結論
よって,以上により,当裁判所は,本件各行為のうちテーブル脚で父親の頭部
等を多数回殴打した点については誤想防衛が成立し,被告人は文化包丁で父親の側頭部を2回刺突した点についてのみ刑事責任を負う一方,同刺突行為との因果関係が立証されていない父親の死亡結果については責任を問えないため,結局殺人未遂罪のみが成立し,さらに犯行当時被告人は心神耗弱の状態にあったと認定した次第である。
【法令適用の過程】
(1)

有罪と認定した事実に記載の被告人の行為は,刑法203条,199条
に該当する。
そこで,後記犯情により,その法定刑の中から有期懲役刑を選択した上,本罪は心神耗弱者の行為であるから,刑法39条2項,68条3号により法律上の減軽を行う。その結果導き出された刑期の範囲内で,当裁判所は,後記量刑の理由により,被告人を主文の刑に処することとした。
(2)

被告人には未決勾留の期間があるので,刑法21条を適用して,その日数の
うち主文の日数をこの刑に算入する。
(3)

訴訟費用(国選弁護費用,鑑定費用,証人費用)が生じているが,刑事訴訟
法181条1項但書を適用して,被告人にはこれを負担させない。【量刑の理由】
本件は,軽度の精神遅滞を患い,長年にわたり自宅の一室で引きこもり生活を送ってきた被告人が,そのような被告人の生活態度が気に入らず度々暴言や暴力を加えてくる父に対して憎しみの感情を募らせた末に,本件当日,父が自分を殺そうとしていると勘違いした被告人の行為によって父親が致命傷を負ったのに際し,殺意をもって文化包丁でその側頭部を2回突き刺したが,頭部刺創の傷害を負わせただけで殺害には至らなかったという事案である。
このように,本件は,息子が実父を刺殺しようとした,それ自体非常に重大な犯行であるが,その犯行態様も,致命傷を負って抵抗不能な状態にある父親に対し,確定的殺意をもって鋭利な包丁でその側頭部を2回突き刺すなど,極めて悪質なものである。被告人は本件に至るまで長年にわたり父親から暴言や暴力を繰り返し受けてきたものであって,犯行に至る経緯には被告人のために酌むべき点が少なからず認められるものの,積年の憎しみの感情に任せて父親を亡き者にしようとするなどは,あまりにも短絡的であるといわざるを得ず,犯行動機についても一定の非難は免れないところである。また,犯行結果についても,既に述べたとおり,父親の死亡という本件当日の被告人の一連の行為の極めて重大な結果については被告人にその刑事責任を問うことができないものの,父親は,その表現方法には相当問題があったとはいえ,やはり親として引きこもり生活を送る被告人の行く末を案じていたところを,他ならぬその被告人から包丁で刺し掛かられたものであり,その驚きや無念,
肉体的苦痛は筆舌に尽くし難いものがあり,
犯行結果もかなり重大である。
このように,本件は重大な事案であり,被告人は相応の刑事責任を免れないというべきであるが,ただその一方で,以下に述べるような被告人のために酌むべき事情も重視せざるを得ないと思われる。
まず,被告人は,既に述べたとおり,軽度精神遅滞を主因として行動制御能力が著しく減弱した状態下で衝動的に本件犯行に及んだものであって,その行為について健常者と同様の非難を加えることはできないのは当然である。なお,被告人がこのような精神状態に至るには長年にわたる引きこもり生活も影響していることが窺われるが,G等鑑定によれば,被告人は精神遅滞であることを家族ら周囲の者らに理解されず失敗体験を繰り返した結果として引きこもり生活をするに至ったものであって,
従前の生活態度の面から被告人を一方的に非難することもまた相当でない。さらに,上記のとおり犯行に至る経緯には父親にも一定の落ち度があったことは否定できないこと,被告人は事実関係をことさらに争うことなく,本件につき徐々にではあるが内省を深めつつある様子が窺われること,被告人は現在22歳の将来ある若者であって,
これまで前科前歴もないこと,
父親の近親者でもある母や姉が,
父親が死亡したという事実も含めて被告人を宥恕する旨表明するとともに,被告人の社会復帰後には福祉サービスや精神医療の専門家のサポートも得ながら被告人の更生に努める旨述べていること,本件における被告人の未決勾留期間が相当長期に及んでおり,既に一定程度事実上の制裁を受けているとも解し得ること,などの事情も認められる。
そうすると,本件事案の重大性等に鑑みれば,本件は実刑を免れない事案ではあるが,他方で,上記のような被告人のために酌むべき事情も少なからず認められることから,当裁判所は,これらを総合的に考慮した上,主文の刑を量定するに至った次第である(検察官求刑-懲役8年)

前記判決宣告日同日
大阪地方裁判所第7刑事部

裁判長裁判官

杉田宗久
裁判官

小畑和彦
裁判官坂本好司は,本判決の評議・評決に関与したが,現在出張中のため,署名・押印することができない。

裁判長裁判官

杉田宗久
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