判例検索β > 平成28年(く)第119号
再審開始決定に対する即時抗告事件
事件番号平成28(く)119
事件名再審開始決定に対する即時抗告事件
裁判年月日平成29年11月29日
法廷名福岡高等裁判所
結果棄却
原審裁判所名熊本地方裁判所
原審事件番号平成24(た)3
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平成29年11月29日福岡高等裁判所第1刑事部決定
平成28年

第119号
主文
本件即時抗告を棄却する

第1


抗告の趣意

本件即時抗告の趣意は,検察官大久保仁視作成の即時抗告申立書,検察官山内峰臣及び同國井弘樹共同作成の平成28年11月17日付け意見書及び平成29年2月15日付け意見書3,検察官國井弘樹作成の同年5月10日付け意見書4に各記載のとおりであり,これらに対する意見は,主任弁護人三角恒外作成の平成28年11月22日付けの
三角恒
載のとおりであるから,これらを引用する。
検察官の論旨は,要するに,原決定は,Aに対する殺人,銃砲刀剣類所持等取締法違反,火薬類取締法違反被告事件のうち殺人被告事件について,新規性のない証拠,あるいは,明白性のない証拠をあらたに発見された無罪を言い渡すべき明らかな証拠として,再審開始の決定をしているから,原決定を取り消した上,本件再審請求を棄却すべきである,というのである。
そこで,原審記録を含む関係記録を調査し,当審における事実取調べの結果を併せて検討する。
第2
1
事案の概要
事件発生から本件再審請求に至るまでの経緯

Aに対する前記殺人被告事件の被害者B(当時59歳)は,昭和60年1月8日午前9時30分頃,熊本県下益城郡C町(当時)所在の被害者方室内で殺害されているのを発見された。警察は,同月5日夜,被害者方において,将棋仲間であるA,被害者,D及びその妻の4名が飲酒していたことが判明したため,同月8日夜から同月19日にかけて,Aを任意で取り調べた。Aは,同月19日までは犯行を否認していたが,同月20日に被害者の殺害を自白して,同日逮捕された。Aは,その後の取調べにおいても,被害者の殺害を認め,同年2月10日被害者を殺害した殺人の事実で起訴され,さらに,けん銃及び実包を所持した事実でも起訴された。これらは熊本地方裁判所で審理され,Aは,第1回公判期日において,公訴事実にある殺人の動機を若干争っただけで,被害者殺害の事実を認めたが,第5回公判期日において,被害者を殺害したことはないとして,殺人の犯人であることを否定し,捜査段階の自白は偽りである旨供述するに至った。しかし,熊本地方裁判所は,昭和61年12月22日,殺人,銃砲刀剣類所持等取締法違反及び火薬類取締法違反の各罪について,Aをいずれも有罪と認定し,懲役13年に処する旨の判決を言い渡した。Aは,これに控訴,上告したものの,これらが全て棄却され,前記熊本地方裁判所の第1審判決(以下「確定判決」という)が確定し,Aは刑の執行を受け終えた。
Aの法定代理人成年後見人弁護士Eは,平成24年3月12日,前記殺人被告事件について無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したとして,熊本地方裁判所に再審を請求し,Aの長男Fも,平成27年9月17日,同様の理由により,熊本地方裁判所に再審を請求したところ,原審は,平成28年6月30日,再審開始を決定した。なお,Fは,平成29年9月1日頃に死亡したため,同人からなされた再審請求の手続は,終了している。
2
自白の経緯及び内容等

Aが捜査段階において自白した経緯及びその自白の内容は,次のとおりである。Aは,昭和60年1月8日から同月10日まで,同月12日から同月14日まで,熊本県警察C警察署において,任意の取調べを受け,被害者方で同月5日被害者及びD夫妻と飲酒した状況について事情聴取された。警察は,D夫妻がAと被害者が口論した事実を供述したため,その後,Aから口論の経緯について事情聴取をしたが,Aは,被害者と口論になった後は,帰宅したにすぎず,被害者を殺害した犯人に心当たりはない旨供述していた。同月15日から17日までの間は,Aに対する取調べはなかった。
Aは,同月18日午前中,警察の求めに応じてポリグラフ検査を受け,それからは追い詰められたような態度になったが,同日のその後の取調べにおいては,ポリグラフ検査での反応と従前の供述との矛盾を追及されても,それまでの供述を繰り返していた。Aは,翌19日になって,被害者殺害について曖昧な供述をするようになり,否認したまま逮捕して欲しい,逮捕されれば,驚くほどすらすら供述するなどと述べていたが,翌20日は,自宅で見たいテレビ番組があるので,取調べを休みにして欲しいと申し入れた。しかし,警察官の説得を受け入れ,警察署に出頭しない代わりに,警察官が午前中から自宅に訪ねてきて取調べを続けることになった。
Aは,同月20日,自宅において取調べを受け,当初は従来と同様に被害者を殺害していないという供述をしていたが,間もなく,被害者の殺害を認め,次のとおり供述した。
被害者方で飲酒するうち,自分の親族のことで被害者と口論になり,被害者から「お前は若僧のくせに黙っとれ,俺には暴力団が一杯ついとるから,お前を殺すのはわけなかぞ」と言われ,謝って被害者方から帰宅したが,以前将棋のことで侮辱されたこともあり,はらわたが煮えくり返るほど腹が立ち,殺される前に被害者を殺してやろうと思った。自転車で自宅に帰り,2階作業場に置いていた工作に使う長さ約20㎝の切出小刀(以下「本件切出小刀」という)を持ち出して,自転車で被害者方に引き返すと,しばらくして被害者が帰宅するDを同人宅まで送り届けようとして,二人が被害者方を出たので,二人を尾行した。その後,被害者が帰宅したので,被害者方の裏口で様子をうかがい,頃合いを見計らって,軍手をはめたまま部屋に入り,被害者の頭を押さえて,被害者が声を出さないように首を狙い,右手に持った本件切出小刀で被害者の首左側を十数回突き刺して殺した。帰ろうとして被害者方の玄関口に出る前,軒下で被害者の自転車のハンドルが身体に当たったので,腹立ち紛れにその自転車を土手下に投げ捨てた。自転車で帰宅中,右手の軍手に血が付いているのに気付き,軍手を脱いでG川の橋左側の上流に投げ捨てた。本件切出小刀は,ジャンパーのポケットに入れて自宅に持ち帰り,風呂場で被害者の血をきれいに水洗いし,3か所刃こぼれしていたので,砥石で研いでそれを直した。
Aは,以上のとおり供述した上,同月20日,自宅2階作業場にあった本件切出小刀を被害者殺害の凶器として警察官に提出している。
Aは,同月21日から同年2月4日までの間,自転車で被害者方に引き返してから,被害者が帰宅するDを送り届けるのを尾行した経過について,詳しく供述したほか,被害者を殺害後,被害者の自転車を土手下に投げ捨てたこと,血の付いた軍手をH橋からG川に投げ捨てたこと,帰宅後本件切出小刀を洗って刃こぼれを研いで直したことなどについて,当初の自白と同様の供述を繰り返した。しかし,Aは,同年2月5日に至って,次のとおり,3点について従前の供述を変更した。

犯行で血の付いた軍手は,実際は自宅に持ち帰り,風呂場の焚き口で燃やし
た。そのことを供述すると,風呂場の焚き口に残った灰から軍手の燃えかすが出てくるが,川に捨てたと供述すると,軍手は発見されないことになり,動かしがたい唯一の証拠品である血の付いた軍手が見付からず,無罪を勝ち取る可能性が少しでも残ると考えた。しかし,被害者方での現場検証で進んで説明し,証拠が固まってくるなかで,警察官から軍手が川から発見されないのはおかしいと尋ねられたため,真実を供述することにした。

本件切出小刀を自宅2階作業場から取るとき,柄に血が付かないようにする
ため,ネル地の古いシャツを手で切って破り,柄と刃の接合部に5,6回巻き付けた。被害者を殺害後,本件切出小刀からその布切れを抜き取って,丸めた軍手の中に入れ,帰宅後軍手と共に焼却した。

被害者方に飲酒に赴いたときは,皮底靴を履いていたが,それでは歩くとき音がするので,本件切出小刀を持って自宅を出るときには,ゴム底靴に履き替えた。ゴム底靴は同年1月8日警察に提出していたが,皮底靴は,同月18日ポリグラフ検査を受けた後,明日逮捕されると思って,身辺整理のため風呂を沸かしたとき,目に付いたので,被害者方には皮底靴の靴跡も残っていると考え,燃やしてしまった。燃えた後の灰の中から,皮底靴の中にあるアーチ保持金具2本を取り出し,冷やしてから,割れ物などを捨てる石油缶の中に捨てた。
Aは,同年2月5日の取調べにおいて,自宅倉庫にけん銃及び実包を隠匿所持していることも供述したところ,警察官が捜索した結果,Aの供述に沿う場所からけん銃及び実包が発見された。
3
確定判決の要旨

確定判決は,大要次の理由から,Aを被害者殺害の犯人と認定している。Aは,最初に自白した昭和60年1月20日の時点で,被害者殺害の犯行の概略を相当具体的かつ詳細に述べ,同年2月5日に至って,本件切出小刀に布切れを巻き付けたこと,皮底靴をゴム底靴に履き替えて皮底靴は風呂の焚き口で焼却したこと,軍手等の処分状況の3点につき,供述を付加ないし変更したが,犯行の内容の基調となる部分には一貫性があり変化がない。しかも,同日にけん銃等不法所持という別罪まで一挙に自白していることに照らすと,観念して本当のことを言う気になった旨のAの供述は十分理由があり首肯できる。
Aの自白する犯行の動機は,従前からのAの被害者に対する強い反感,被害者方における酒席での状況,Aの極めて自尊心の強い特異な性格を併せ考えると,殺害の動機として首肯できるものであり,犯行に至る経緯,犯行の手段,方法等についても,客観的証拠に照らし格別不自然,不合理な点を見出せないことなどに鑑みると,Aは,捜査段階における取調べに対し,自己の体験したところを素直に供述し,公判においてもこれを追認,自白したものと推認される。
Aが焼却した皮底靴の金具が,Aの供述どおりの場所から発見された事実は,Aの供述の信用性を担保する一種の秘密の暴露にあたる重要な事実である。皮底靴の焼却の事実は,Aが罪の意識を抱き,罪証隠滅工作をしたものと解するほかない。また,Aは,被害者とDを尾行した際,I家の居間に明かりがついていた旨供述しているが,Aがその供述をした当時,取調官らはその事実を知らず,Aの供述によって初めてその事実を知り,関係者にその事実を確認したと認められる。前記Aの供述は,被害者を殺害するべく被害者らを追尾した事実に関する秘密の暴露であり,看過できない事実ということができる。
そのほか,Aは,ポリグラフ検査において,有罪意識を判別する質問に顕著な特異反応を示し,犯罪事実の認識の有無を判別する質問にも特異反応を示している。さらに,Aに対する任意捜査の状況は,それに耐え切れず,虚偽の自白をしてでも逮捕され任意捜査を終わらせたいと思い詰める程のものではなかった。4
原決定の要旨

原決定は,大要次の理由から,本件が刑訴法435条6号所定の無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したときに該当するとしている。確定審の争点は,Aが被害者を殺害した犯人であるかどうかにあったところ,直接証拠はAの捜査段階の自白のみであり,それ以外に犯行とAを結び付ける目撃供述や決め手となるような物的証拠は存在しないから,確定審における判断の分岐点は,Aの自白に任意性及び信用性が認められるか否かであった。Aは,シャツの左袖から細長い布切れを切り取って,本件切出小刀の刃体と柄の付け根部分に巻き付け,その状態で被害者の頸部を多数回突き刺し,犯行後,これを自宅の風呂場の焚き口で軍手と一緒に燃やした旨供述している。しかし,巻き付けた布切れに関する新証拠によると,そのシャツの左袖が現存しており,血液の付着も認められなかったことが明らかになったから,Aが本件切出小刀に巻き付けた布切れはAの供述するシャツの左袖から切り取った布切れではなかったといえるだけでなく,本件切出小刀に血が付かないように布切れを巻き付けた旨の供述は,Aの体験に基づく供述ではないとの合理的な疑いが生じてくる。
使用された凶器に関する新証拠のうち,J大学法医学分野教授Kによる鑑定は,刺入口の長さ及び創洞の深さの計測値が比較的正確であると判断できる創8及び創14が,本件切出小刀の形状と矛盾することを具体的に指摘したものであって,その理由は非常に合理的である。K鑑定によって,創8及び創14は,本件切出小刀の形状と矛盾し,本件切出小刀によっては成傷し得ないのではないかという合理的な疑いが生じる。そして,巻き付けた布切れに関する新証拠も併せると,本件切出小刀は被害者を殺害した凶器ではないという疑いは,一層強いものになる。確定判決は,Aの自白の信用性を認め,Aは,捜査段階における取調べに対し,自己の体験したところを率直に供述したと評価しているが,犯行に用いた凶器の特定とその具体的な用い方は,犯行に関する自白の核心部分を構成しているとみるべきである。前記

の巻き付けた布切れに関する新証拠及び

の使用された凶器

に関する新証拠を検討することによって,自白の核心となる部分の信用性がかなり動揺しているというべきであり,このような自白の核心部分の一つに疑義が生じていることは,Aの自白全体の信用性を動揺させる。そのほかの新証拠と,確定審で取り調べられた全証拠を総合して検討すると,確定判決において自白の信用性を担保するとされた各補助事実についても,その証明力や証拠価値に疑問が生じており,自白の信用性を支える根拠が相当に減弱しているというほかない。そうすると,Aの自白のみをもって,確定判決の有罪認定を維持し得るほどの信用性を認めることは,もはやできなくなったといわざるを得ず,確定判決の有罪認定に合理的な疑いが生じている。
第3

当裁判所の判断

そこで検討すると,原決定の説示するとおり,巻き付けた布切れに関する新証拠及び使用された凶器に関する新証拠は,被害者殺害の事実について,Aに無罪を言い渡すべき新規かつ明白な証拠ということができるから,原決定には検察官の論旨のいうような刑訴法435条6号の要件充足の判断を誤ったところはなく,原決定は相当で維持すべきである。以下その理由を説明する。
1
確定審における判断の分岐点について
確定審で取り調べられた全証拠をみても,本件においては,被害者が殺害される場面あるいはそれに近接する場面など犯人を特定できる状況を目撃した者はおらず,そのほかにも被害者を殺害した犯人を特定できる証拠は存在していない。確定審で取り調べられた証拠をみても,警察官らは,ポリグラフ検査の結果から,Aが犯人であるという濃厚な嫌疑を抱きながらも,Aが自白するまでは,Aに対する逮捕状を請求できずにいたのである。当時C警察署に勤務して本件の捜査に当たっていた警察官Lは,確定審において,Aの逮捕状は昭和60年1月20日のAの自白を疎明資料にして請求した旨供述している。これらのことから,被害者殺害の犯人を示す証拠は,Aの自白以外にはなかったということができる。
確定判決も,Aは,捜査段階における取調べに対し,自己の体験したところを素直に供述し,公判においてもこれを追認,自白したものと推認されるとして,Aの捜査段階の自白のみから,Aを被害者殺害の犯人と認定している。確定判決は,Aが焼却した皮底靴の金具が,Aの供述どおりの場所から発見された事実,Aが被害者とDを尾行した際,I家の居間に明かりがついていた事実を秘密の暴露と位置付けているが,これらの事実は,Aの自白の信用性を支える事実にとどまり,直接Aが犯人であると推認できるようなものではない。さらに,確定判決は,Aのポリグラフ検査での反応にも触れているが,それもAの自白の信用性を支えるにすぎないものであり,その証明力については慎重な検討を要する性質の証拠である。所論は,原決定は,Aと犯行を結び付ける決め手となる証拠は自白以外に存在しないという判断を前提としているが,本件の全体像を正当に評価すれば,自白以外にもAが犯人であることを示す間接事実が多数認められ,確定判決も,このような全体像を正当に評価したもので,自白のみをもって有罪としたものではない,という。すなわち,所論は,本件は,怨念に基づき,計画的に,抵抗を許さない態様で,確定的殺意を持って敢行されたものであるところ,Aと被害者は,互いに不快の念を抱いて反目し合っており,犯行時刻直前に,激しく口論し,Aは被害者やDから殴り付けられており,Aが着用していた灰色ゴルフウエアには,ルミノール化学発光検査により血痕予備検査陽性部が認められる,というのである。しかし,確定判決は,所論の理由からAを犯人と認定しているのではなく,所論は,確定判決の説示と明らかに異なった前提に立つものというほかない。しかも,本件は,犯行態様から,怨念に基づく計画的犯行と断定できるようなものではなく,Aと被害者の関係も,Aがそのような怨念を抱くことになるといい切れるようなものではない。Aの灰色ゴルフウエアは,被害者が殺害されたという同年1月6日から3日後の同月9日に押収されたものである上,そこに認められた血痕も,約示指頭大のごく微量のものであり,そのため血痕の血液型等も検査されていないのであり,被害者殺害との関連が認められるようなものではない。所論のいう証拠は,Aを犯行に結び付けるに足りるものではない。
2
使用された凶器に関する新証拠のうちK鑑定について



原決定が新規かつ明白な証拠とする使用された凶器に関する新証拠のうちK
鑑定は,被害者の死体の創傷と本件切出小刀の形状の関係について,当時M大学法医学教室教授Nが残した被害者の死体を司法解剖した経過を記載したメモ(以下「N鑑定メモ」という)に従って,次のとおり判断している。
N鑑定メモには,被害者の左側頸正中後部の上約3分の1にある創8は,「深さ約4.0㎝以上を算し,頸椎骨に達している」「第4頸椎骨の左側部において,深さ約0.7㎝の骨創傷を存する」とされているから,創洞の深さは合計4.7㎝程度であったと考えられる。N鑑定メモでは,創8の刺入口の長さは約1.5㎝とされているから,被害者を殺害した成傷器は,先端から約4.7㎝のところで刃幅約1.5㎝以下の刃器となるが,本件切出小刀は,先端から4.7㎝の部分の刃幅は2.1㎝であり,刃幅1.5㎝のところは先端から約3.2㎝のところとなり,想定される成傷器と矛盾する。N鑑定メモでは,被害者の前胸左外側上部にある創14の創洞の深さも約4.8㎝とされており,刺入口の長さは約1.5㎝とされているから,同様に,想定される成傷器は本件切出小刀と矛盾することになる。⑵

そこで,原決定がK鑑定に依拠して本件再審開始を決定したことの当否について検討する。
まず,N鑑定メモによれば,N教授は,創8の創洞の深さにつき,骨に達するまでの深さと,骨に達した後の深さを別々に分けて計測するなど,被害者の創洞の深さは慎重に計測している。また,N教授は,確定審公判において,創洞の深さに3分の1から4分の1程度の誤差がある場合には,「大約」という表現を用いて,より正確に深さを計測した場合に用いる「約」という表現と区別していた旨供述している。N鑑定メモをみると,被害者の頸部,顔面,胸部にあった15か所の創傷のうち,9か所については,創洞の深さが「大約」として計測されている一方,創8及び創14の各創洞の深さは,「約」とされており,この2つの創洞の深さは,その余のものより,正確に計測されているということができる。
所論は,当時O大学名誉教授であったPは,確定審の控訴審において,本件切出小刀を用いても,いわゆる「押し下げ現象」により,被害者の創傷を形成することが可能であると鑑定していることなどから,K鑑定のいう矛盾は「押し下げ現象」によって説明できる,という。「押し下げ現象」は,刃器が刺入するとき,刃の先端部で皮膚が押し下げられるため,押し下げられた状態で形成された刺入口の長さは,刃器が引き抜かれ皮膚が戻って形成される創洞の深さと比較すると,刃の先端ほど刃幅が短くなる刃器の場合であれば,成傷器の創洞の深さに相当する部分よりは刃幅が短くなる機序のことである。K鑑定及びKの原審供述は,この点について,次のように説明している。創8と創14について,「押し下げ現象」による影響をみると,皮膚が切れるまでに1.5㎝(深さ4.7㎝から本件切出小刀の刃幅が1.5㎝となる部分の先端からの長さ3.2㎝を差し引いたもの)部分の長さ以上皮膚が押し下がる状態にならないと,本件切出小刀の形状との矛盾を説明することはできない。しかし,創8は頸部左側,創14は前胸左外側上部の傷であり,これらの部位は脂肪層が少なく,皮膚から骨までの筋肉軟部組織もそれほど厚いわけではなく,皮膚が容易に陥凹するわけではないから,被害者の創8及び創14の創傷の状態と本件切出小刀の形状との矛盾は,「押し下げ現象」によって説明できるものではないというのである。K鑑定及びKの原審供述は,創8及び創14の部位から「押し下げ現象」の影響を十分合理的に説明している。
また,被害者が着用していた着衣には,創8と対応するセーターのとっくり部分に長さ15㎜ないし長さ16.6㎜の損傷(とっくり部分の外側と内側の長さが異なる),創14に対応して,セーターに長さ15.3㎜,肌色下着に長さ15㎜,白色下着には長さ15㎜の各損傷があり,これらの長さは創8及び創14の刺入口の長さ約1.5㎝とほぼ一致している。これらの衣類がことごとく,皮膚と同様に約1.5㎝も押し下げられてから切断されたとみるのはいささか困難であるから,K鑑定のいうとおり,創8及び創14の刺入口の長さと着衣の損傷の長さが一致したことは,被害者の身体は切れ味の良い刃器で刺され,そのため大きな「押し下げ現象」はなかったとみる十分な根拠になるということができる。
以上によると,K鑑定は,合理的な根拠をもって,本件切出小刀と被害者の創8及び創14との間の矛盾を説明しているということができるから,本件再審開始の成否の判断に当たっては,K鑑定に依拠することができるというべきである。⑶

所論は,以下の理由から,本件再審開始の成否の判断では,K鑑定には依拠
できない,という。①Q大学法医学教室教授Rによると,刺入口の長さから成傷器の形状を判断する場合,創縁を接着させた状態で「接着長」を計測するほか,創縁を接着させてそれを指で長軸の方向に伸展させて「伸展接着長」を計測する必要があるが,N教授は伸展接着長を計測していない上,R教授は,刃器が刺入されて刃背側に局所的に圧力が加えられた場合,刃背側の皮膚が伸びるので,使用された成傷器の刃幅が刺入口の伸展接着長を超える可能性があると述べている。②N教授は,創8及び創14において,外表から創洞にゾンデを挿入するだけで,創洞の深さを測定しているが,そのように手の感覚だけで創底を確実に把握することはできないのであり,創8の創洞の深さを計測しているつもりで,それに隣接する創7の創洞にゾンデを挿入していた可能性を否定し難い。③K教授が行った実験では,被害者の身体の姿勢の変化により,刺入口の長さが,創8は0.1㎝,創14は0.2㎝の変化が生じたというが,検察官が行った実験では,創8で最大約0.3㎝,創14で最大約0.7㎝もの差異が生じている。④P鑑定は,K教授がいう皮下脂肪の程度などの創傷の部位を十分把握して,結論を示している上,犬の大腿部を刺突した実験によると,「押し下げ現象」により,成傷器の刃幅が刺入口の長さの約1.36倍になり,成傷器の刃の長さが創洞の深さの約0.74倍になっていた可能性が確認されている。⑤「押し下げ現象」とは別に,刃器が刺入された際,人間の皮膚の弾力性に起因して,刃背側だけでなく,刃側の皮膚も切断されず伸張することがあり,実例として,死体から刃器を抜去した際,刺入口の長さが約2.3㎝であり,刃器の刃幅約2.6㎝より短かったことがあった,というのである。しかし,①については,K鑑定によると,被害者の創8及び創14の刺入口の長さは,本件切出小刀の刃幅より0.6㎝短くなり,そこに大きな矛盾があるというのである。所論がいうように,刺入口の長さを伸展接着長により計測したり,刺入されるとき刃背側に局所的に圧力が加わったりすることにより,0.6㎝もの大きな差異が生じるとは考えられない。K教授は,刺入された刃の背側に力が加わったか,刃側に力が加わったかで,皮膚の伸張に大きな差異は生じないとして,所論に反論している。K教授の見解の是非は措いても,そのような反論がされること自体から,少なくとも所論の理由によって0.6㎝もの大きな差異は生じないということができる。
②については,所論は,N教授の創8及び創14の創洞の深さの計測方法が不適切であった可能性をいうにとどまり,実際にそのような不適切な計測がされたことの根拠を示すものではない。N教授は,「約」と「大約」を区別していることからも,創洞の深さをできるだけ正確に計測しようとしていたということができる上,K教授は,N教授の計測について,創8については創底が軟部組織ではなく堅い頸椎骨であったことから,創14については創底が皮膚の変色部位から確認できることから,不正確であった可能性はないとしている。また,創7と創8は,近接しているとしても,約1.3㎝程度は離れており,刺入口の方向はほぼ平行で,創洞もほぼ同じ角度で刺入されて形成されたものとみられるから,創7と創8の創傷が体内で繋がっていた可能性はほとんどなかったということができる。N教授が,創8の創洞を計測するつもりで,創7の創洞を計測した可能性は考え難い。③については,検察官の実験を撮影した当審検察官提出の平成28年10月12日付け写真撮影報告書によると,検察官の実験は,被験者に多様な姿勢をとらせて刺入口の長さを計測したものである。創8については頭部を右方に向けたり傾けたりして頸部左側を伸張させた姿勢によるものがあり,創14については左手を上げることにより左肩を上向きに伸張させた姿勢によるものがある。被害者は,コタツで座っているとき殺害されており,その姿勢で左側から刃器によって頸部等を刺される際,検察官の実験のように頸部や左肩を伸張させる姿勢をとったとは考え難い。しかも,K教授は,検察官の実験のように左腕を額あたりまで上げた状態では,創14の創底が鎖骨の上になり,被害者の鎖骨に刃器による損傷がないことと矛盾することを指摘している。
④については,P鑑定は,押し下げ現象を説明したものに過ぎず,K鑑定のように,創傷の部位の特性を踏まえた「押し下げ現象」の影響を具体的に説明したものではないから,創8及び創14の部位の皮下脂肪の状況までも考慮したものと解することはできない。また,K教授によると,犬の皮膚は,姿勢を動かさなくとも可動範囲が広く,構造や強度が人の皮膚とは大きく異なっており,犬の大腿部は厚い筋肉層であるが,創8及び創14は手で押してもほとんど凹まない部位であり,押し下げ現象は生じにくいというのである。このようなK教授の説明は,不合理なところを見出せないから,所論の実験はK鑑定を否定する根拠にはなり得ない。⑤については,所論のいう実例は,S大学法医学教室教授Tが,刃器が刺入されたままの死体が司法解剖のため搬入され,刃器の刺入口に当たる部分の刃幅が約2.6㎝であったのに,刃器を抜去した後の刺入口の長さが約2.3㎝であったことをいうものである。しかし,当審検察官提出の平成28年10月5日付け資料入手報告書の当該死体を撮影した写真を見ると,K教授が指摘するとおり,死体の刺入口は創縁を十分接着せず長さを計測しているから,実際の長さより短く測定された可能性がある上,定規の目盛りの読み方によっては,刺入口の長さは刃幅と大差ない長さとみることもできる。そうすると,皮膚の弾力性によって刺入口の長さが成傷器の刺入口に当たる部分の刃幅より短くなる程度は,それほど大きなものではなく,創8及び創14の各創傷と本件切出小刀の形状との矛盾を説明するに足りるものとはいえない。
さらに,所論は,種々の根拠をあげて,K鑑定に依拠して本件再審開始の成否を判断すべきではないという。K鑑定に依拠すべきかどうかの検討において重視されるべきであるのは,K鑑定は,被害者の死体の創傷と本件切出小刀の形状の微妙な不一致を指摘しているのにとどまるのか,看過し得ない矛盾といえる不一致を指摘しているのかということにある。そのような観点から被害者の死体の創傷と本件切出小刀の形状の関係をみると,まず,創洞の深さが実際に刺入された刃の部分より1.5㎝短く,刺入口の長さが実際の刃幅より0.6㎝短いことになるが,このような不一致は微妙なものということはできない。次に,被害者の死体に残された15個の創傷のうち,N教授が創洞の深さを「大約」とせず正確に計測したものは創5,創7,創8,創13ないし創15の6つであるところ,K鑑定によると,そのうちの2つが本件切出小刀の形状と矛盾していることになる。また,K鑑定はN教授が「大約」として創洞を計測した創傷は度外視しているが,「大約」として計測されている9つの創傷をみると,不正確な計測であることを前提にしても,創1は,顔面鼻根部右外側という皮下脂肪の比較的少ない部位に,創洞の深さが本件切出小刀の刃体の部分より長い大約13㎝とされている。創4は,創洞の深さが創8及び創14より長い大約5.5㎝とされているのに,刺入口の長さはわずか約1.1㎝とされ,創10は,創洞の深さが創14より長い大約5.0㎝とされながら,刺入口の長さは創14と同じ約1.5㎝とされている。また,創12は,創洞の深さが大約1.0㎝に対して,刺入口の長さは約0.4㎝とされているが,本件切出小刀の先端から1.0㎝の部分の刃幅は明らかに0.4㎝より長い。このように,「大約」とされた創傷9つについても,そのうちの4つが本件切出小刀の形状と一致していない可能性があるということができる。そうすると,被害者の死体に残された創傷をN教授が計測した結果は,本件切出小刀の形状と相当に矛盾しているといわざるを得ない。
3
巻き付け布に関する新証拠について

巻き付けた布切れに関する新証拠(検察官が原審に提出した検7号証も含む)は,次のとおりのものである。すなわち,警察は,昭和60年1月21日,Aの実妹から,A方2階作業場にあった赤・茶・白のチェックのスポーツシャツ3片の任意提出を受け,同年2月5日,同作業場を捜索して,約27㎝☓約34㎝大の赤と茶のチェック柄布片1片を発見押収している。Aの捜査段階の自白によると,これらのスポーツシャツの布片の残余となる左袖部分を本件切出小刀の柄の部分に巻いて,被害者を殺害したというのであるが,その後,警察は,同月14日,A方北側の倉庫と住家の境付近角から,上記シャツと同じ生地柄の肌色地に茶色と赤色のチェック模様の残布1片を発見し,Aの実妹から任意提出を受けており,これが巻き付けた布切れに関する新証拠である。そして,最後に発見押収された残布が左袖部分であり,これらの布片全てを合わせると,ほぼ完全な形で1枚のシャツが復元できたというのである。
Aは,昭和60年2月5日付け警察官調書(本文9丁のもの)において,自宅2階作業場に置いていた,油や研いだものを拭くときに使うネル地の古いスポーツシャツを長さ30㎝,幅3㎝位に手で破って切り,血が柄の方につかないように,本件切出小刀の柄と刃のところに5回か6回巻き付けた旨供述している。さらに,同警察官調書において,被害者を殺害して軍手を脱ぐとき,一緒に本件切出小刀からその布片を抜き取って,軍手の中に入れ,そのまま自宅に帰って,風呂の焚き口で燃やしてしまい,灰掻き棒で焚き口を掻き回したが,軍手と布片はきれいに燃えていた旨供述している。同月6日付け警察官調書(本文19丁のもの)においては,同年1月21日領置された赤・茶・白のチェックのスポーツシャツ3片と同年2月5日差し押さえられた赤と茶のチェック柄布片1片は,同じ生地柄のシャツのウエスであって,本件切出小刀の柄と刃体の接合部分に巻いた布は,このウエスからとったものである旨供述している。その上で,前記4片のウエスを繋ぎ合わせると,シャツの型になるが,左側袖が肩口からなく,その左袖を開いてウエスとして使っていた布切れが,本件切出小刀の柄の部分に巻いたものであり,犯行後風呂の焚き口で燃やしてしまったものである旨を供述している。
そうであるにもかかわらず,Aが燃やしたと供述していたネル地のスポーツシャツ左袖部分の布片が,実際には存在したことになるから,Aは,本件切出小刀にスポーツシャツ左袖の布切れを巻き付けたことについて,事実に反する供述をしたというほかない。
所論は,当時A方2階作業場には,同じ用途に使われていた同様の布切れが多数あり,Aはそのうちの1片を任意に使用したにすぎず,Aは,本件切出小刀に巻いた布切れの具体的な特定について,曖昧な供述をしたり,供述を変遷させたりしているから,巻き付けた布切れに関する新証拠は,本件切出小刀に巻き付けた布切れが前記スポーツシャツの左袖部分であったというAの供述の信用性には影響するとしても,布切れを巻き付けた本件切出小刀で被害者を殺害したというAの供述に疑いは生じない,という。しかし,Aは,同年2月5日付け警察官調書(本文4丁のもの)において,本件切出小刀に巻いたのは,ネル地様のスポーツシャツをいくつかの片に切り破った物の1つであり,自宅2階作業場には,このスポーツシャツを裂いたほかに,同じような柄の別のシャツを裂いた物はなかったから,そのような柄のボロ切れがあれば,同じシャツの切れ端である旨供述している。このように,Aは本件切出小刀に巻いた布片を明確に特定して供述していた上,その供述は,真実を供述するとして,従前の供述を訂正してされたものである。しかも,当審検察官提出の昭和60年1月21日付け捜査報告書によると,同日A方2階作業場を捜索した結果,同日押収した赤,茶,白のチェックのスポーツシャツ3片のほか,白色布切れ,緑花柄布切れ,赤色布切れ,青黒等で汚れた布切れの各1片が発見されているにすぎず,A方2階作業場に,Aが取り違えるほど多数の布切れがあったということはできない。そうすると,Aが,捜査段階において,本件切出小刀に巻いた布切れを取り違えて供述したとは考え難いことになる。
4
使用された凶器に関する新証拠及び巻き付けた布切れに関する新証拠に基
づくAの自白の信用性の検討
Aは,最初に自分が被害者殺害の自白をした昭和60年1月20日以降,殺害に用いた凶器は本件切出小刀である旨を一貫して供述しており,その内容は,被害者を殺害するのに本件切出小刀を使った理由,犯行後帰宅して,本件切出小刀,それを入れていたジャンパーを水洗いし,本件切出小刀の刃こぼれを直したことなど,相当に具体的かつ詳細なものとなっている。こうしたAの捜査段階の自白をみると,Aが,他の刃物と取り違えて,本件切出小刀を凶器と供述したとは考え難いところである。そうであるのに,K鑑定によれば,本件切出小刀が被害者の殺害に使用されなかったのではないかという合理的な疑いを払拭できないことになる。
また,Aは,同年2月5日付け警察官調書(本文9丁のもの)において,それまでの供述を訂正して,本件切出小刀に布切れを巻いた上,その本件切出小刀で被害者を殺害し,その布切れは犯行時着用していた軍手とともに焼却した旨供述しているところ,同警察官調書及び翌6日付け警察官調書(本文19丁のもの)においては,前記のとおり,本件切出小刀に巻いた布切れを焼却した経過,その布切れを特定するために必要な事実関係を詳細に供述している。こうしたAの捜査段階の自白をみると,Aが,本件切出小刀に巻いた布切れを取り違えたり,焼却していないのに,焼却したものと勘違いしたりしたとは考え難いところ,焼却したはずの前記布切れが実際には存在していたことになる。
しかも,Aは,同年2月5日付け警察官調書(本文9丁のもの)において,「観念して本当のことを言う気になった」と供述して,本件切出小刀にスポーツシャツを切り破った布切れを巻き付けたこと,皮底靴を焼却したこと,軍手の処分状況について供述を変更しているところ,確定判決は,そうでありながら,犯行の内容の基調となる部分には一貫性があるとした上,供述を変更したことをとらえて,観念して本当のことを言う気になったというAの供述は十分理由があり首肯できるとしている。しかし,確定判決のいう犯行の内容の基調となる部分である使用した凶器に関する供述について,事実に反する合理的な疑いが生じた上,「観念して本当のことを言う気になった」という,本件切出小刀に布切れを巻いたこと自体が虚偽である可能性が現れてきたことになる。確定判決のAを被害者殺害の犯人とする理由の主要な部分が相当に疑わしくなったというほかない。
5
確定審で取り調べられた証拠に基づく検討



Aは,確定審公判において,本件切出小刀に布切れを巻き付けたことにつ
いて,「本件切出小刀の柄は,朴の木で作られた多孔質で,水とか血は良く吸い込みやすく,表面を削らないことには,血が付いたのはとれない木質であった」と供述している。その上で,「検察官から,ナイフの柄に血がつくはずであるが,どうか,と聞かれて,思い付きで,ぼろ切れを巻いたと言った。警察では,検察官に言いながら,どうして警察には隠していたのかと言われ,1日遅れで,警察でもそういうことを述べた」と供述している。
そうすると,Aの確定審供述によると,Aは,検察官にまず,本件切出小刀に布切れを巻き付けたことを供述し,その翌日警察官にもそのことを供述したということになるところ,Aの昭和60年2月5日付け検察官調書及び同日付け警察官調書(本文9丁のもの)の双方において,本件切出小刀に布切れを巻き付けた供述が録取されており,その前日の同月4日にも検察官調書が作成されているから,Aの確定審供述は客観的な取調べの経緯と符合しているとみる余地がある。そして,Aは,同日より前に作成された警察官調書においては,繰り返し,犯行から自宅に戻って,風呂場で本件切出小刀を洗った旨の供述が録取されており,同年1月31日付け警察官調書(本文17丁のもの)においては,タワシを使って本件切出小刀の柄や刃体に付いていた血を丹念に洗い落とした旨の供述が録取されている。これらのことからすると,Aは,警察官に対しては,本件切出小刀に血痕が付着していないのは,風呂場で洗ったことによるという説明をしていたが,検察官から警察での取調べとは異なった観点からの追及を受けて,本件切出小刀に布切れを巻き付けたことを供述するに至ったものということができる。このような経緯に照らして,本件切出小刀に布切れを巻き付けたという供述が事実に反することをみると,Aは,取調べにおいて,捜査官に迎合して,事実に反する供述をしていた可能性が否定できなくなる。


Aは,確定審公判において,「皮底靴は,被害者方に酒を飲みに行くとき
に履いていた靴だから,とっさの考えで,片一方を焚き口にぶり込んでしまい,そうしてから,これは燃やしたら今度不利になったんだなということを考えた」「長時間の取調べ,連日の取調べで,混乱し,片方を燃やしてしまってから,残しておけば,後々の証拠にもなるし,困ったなというふうに思った」と供述している。
Aの捜査段階の自白は,飲酒していた被害者方から自宅に戻って,皮底靴をゴム底靴に履き替えて,被害者方に赴き,被害者とDを追尾するなどした後,被害者方の玄関とは反対の裏側の6畳間濡れ縁で様子をうかがった上,土足のまま室内に入って,被害者を殺害した,というものである。犯行現場にゴム底靴の足跡が残されていたとしても,Aが,その足跡と一致しない皮底靴を所持していたということは,Aにとって不利な証拠とはいえず,見方によっては,Aにとって有利な証拠になり得るものである。そうしたためか,Aは,確定審公判においては,「燃やしたという証拠を残すため,靴底の金具を空き缶の中に入れて保管していた」と供述しているところ,それに符合して,その金具は,A方敷地内の台所出窓外にある灯油缶の中から,さんま蒲焼きの空き缶に入れられた状態で発見されている。皮底靴を焼却した事実は,Aが,同年2月5日,本件切出小刀に布切れを巻き付けたこと,軍手を焼却したことと併せて供述したものである。確定判決は,そのことをAが「観念して本当のことを言う気になった」ものとして,Aが皮底靴を焼却した事実を罪の意識に基づく罪証隠滅工作と位置付け,その焼却を裏付ける金具が発見されたことを秘密の暴露としている。しかし,本件切出小刀に布切れを巻き付けたことが否定されるのであれば,それと同時に供述された皮底靴を焼却した事実に関する確定判決の位置付けにも,容易に従えなくなる。罪の意識に基づく罪証隠滅工作であれば,後に発見されないように金具を処分していたはずであるということもできる。Aが,確定審において,毎日の長時間の取調べで混乱して皮底靴を焼却してしまった旨供述しているのは,あながち否定できないというべきである。⑶

Aの取調べを担当した警察官Lは,確定審公判において,Aは,ポリグラフ
検査において,犯行当時被害者がみかんを食べていたこと,犯行後犯人が自転車を捨てたことに特異な反応をしており,その後の取調べでは,Aの供述とポリグラフ検査の結果の矛盾を追及した旨供述しており,実際,Aは,ポリグラフ検査において,被害者方コタツにみかんがあったとの質問に生理反応を示している。Aは,ポリグラフ検査が行われた2日後の同年1月20日,自白しており,A及び取調べに当たった警察官らの確定審供述によっても,Aは,ポリグラフ検査の結果によって,自白に追い詰められたものということができる。そのことは,Aが,同日付け警察官調書(本文16丁のもの)において,ポリグラフ検査の結果,自分が犯人であるという反応が出たことなどから,嘘が通るものではなく,警察官から諭されて,自分が犯人であることを供述する気持ちになった旨供述していることからも明らかである。
しかし,他方で,Aは,同年2月6日付け検察官調書(本文22丁のもの)においては,検察官から犯行当時被害者方コタツの上にのっていた物について尋ねられたが,気付かなかった旨供述している。そして,同月8日付け検察官調書及び同月9日付け警察官調書においては,ポリグラフ検査の前,警察官から3回ないし4回みかんを食べなかったか聞かれ,同年1月9日頃の取調べのときは,みかんが出されて,それを食べ,トイレから戻ったら,みかんがなくなっていたので,みかんが事件に関係あるのか内心不安になった旨供述している。同年2月9日付け警察官調書においては,ポリグラフ検査の内容は,ほとんど知っていることであり,内容が真実に触れたとき反応が出たことは分かった旨供述しているが,他方で,事件にみかんが関係しているのか内心不安になったので,ポリグラフ検査ではみかんに反応したことがわかった旨供述している。これらの供述からすると,Aは,捜査段階の自白においても,被害者を殺害するとき,被害者のいるコタツの上にみかんがあったことには気付かなかったという供述をしていたことになるから,Aがポリグラフ検査で犯行当時被害者がみかんを食べていたことに反応したのは,Aが犯人であることを示すものとはいえない。
さらに,Aは,確定審公判においては,次のとおり供述している。自分は小心者で嘘を言うと必ず反応するから,ポリグラフ検査を受けるように言われたときは,進んでそれに応じた。しかし,被害者の生活状況は知っていたし,被害者の死体が発見された同年1月8日には,将棋仲間のUから被害者が殺害されていた状況を聞いており,写真も見ていたので,ポリグラフ検査では,どれが真実かわかり,それに反応してしまった。被害者の自転車が崖下に投げ捨てられていたことも,同月17日か18日頃警察官のひそひそ話を聞いて知っており,そうであれば投げ捨てられた自転車に血痕が付着していることは想像できた,というのである。このようなAの確定審供述は,Aが,検察官から警察官とは異なった観点からの追及を受け,それに迎合して,本件切出小刀に布切れを巻き付けたことを供述し,さらには,毎日の長時間の取調べで混乱して皮底靴を焼却した可能性が否定できないことに照らすと,Aが犯人ではないのに,それまでに事実関係を見聞したことから,ポリグラフ検査で反応したというのは,あながち信用性を否定することはできないというべきである。


Aは,確定審公判において,資料を見たり,周囲から聞こえてきたりして,被害者が殺害された状況が分かるようになってきたところ,取調べが厳しくなってきた同年1月10日頃から,真実でありそうなことを供述して自供するため,見聞して分かってきた事実を組み立てて筋書きを考えるようになった旨供述している。このようなAの確定審供述は,捜査官に対して迎合して本件切出小刀に布切れを巻き付けたことを供述したとみることができ,自分に有利なものとも受け取れる皮底靴を焼却するなど,任意の取調べで精神的に疲労し混乱していたとみる余地があることに照らすと,信用性を否定できないというべきである。さらに,Aが,ポリグラフ検査において,予期に反して特異反応を示したとみる余地があることからすると,犯人ではないのに,ポリグラフ検査で特異反応が現れ,そのことを取調べで追及されて,追い詰められ,被害者を殺害したことについて詳細な自白をするに至った可能性は十分にあるということができる。
こうしてみると,使用された凶器に関する新証拠と巻き付けられた布切れに関する新証拠によって,Aが被害者殺害の犯人であることを示す唯一の証拠であるAの捜査段階の自白全体の信用性が大きく揺らぐことになるということができる。原決定が,使用された凶器に関する新証拠と巻き付けられた布切れに関する新証拠によって,Aが被害者殺害の犯人ではないという合理的な疑いが生じたとするのは相当である。
6
原決定の判断手法についての検討



所論は,「鑑定の手法が新規でなく,鑑定資料が同一であるもの」は,証拠
の新規性を否定されるべきところ,原決定のいう「証拠の新規性とは,証拠の未判断資料性をいう」という解釈によれば,確定審で取り調べられていない証拠は,すべて一律に新規性を認めることになり,新規性の要件を無意味にすることになる,という。
しかしながら,原決定は,裁判所による実質的な証拠価値の判断を経ていない証拠について,新規性を認めているのであり,確定審で取り調べられていない証拠すべてについて,新規性を認めているのではないから,所論は原決定の趣旨を正解しないものというほかない。また,K鑑定は,確定審及び確定審の控訴審で取り調べられた証拠に,原審に新たに提出されたN鑑定メモ,凶器の刺入状況の再現結果報告書等も加えて,新たに鑑定されたものであるから,所論がいう「鑑定資料が同一である」場合には該当しない。


所論は,再審請求をうけた裁判所が,特段の事情もないのに,みだりに判決
裁判所の心証形成に介入することはできないにもかかわらず,原決定は,新証拠も提出されていないのに,Aの自白及び確定審供述等につき,改めてそれらの信用性を判断し,確定判決と異なる判断を示しており,このような判断手法は確定判決の心証形成に介入したもので,再審制度の構造に反している,という。しかしながら,確定判決は,「本件犯行に至る経緯のほか,特に犯行の手段,方法等の点につき客観的証拠に照らし格別不自然,不合理な点を見出し得ないこと等に鑑みると,Aは捜査段階における取調べに対し,自己の体験したところを素直に供述し,当公判廷においてもこれを追認,自白したものと推定される」と判断している。そうであるのに,新証拠によって,犯行の手段,方法につき,客観的証拠に照らして不自然,不合理な点が現れたことになる。そして,Aが本件切出小刀に布切れを巻き付けた事実を供述するに至った経緯から,捜査官に迎合する姿勢が看取でき,そのことは,Aが取調べにより精神的に混乱して皮底靴を焼却した事実に繋がり,さらに,それらのことが,自白の直接の契機となったポリグラフ検査において犯人ではないのに特異な反応を示した合理的な疑いに結び付くのである。このような連鎖により,新証拠による犯行の手段,方法が自白と整合しないことは,自白全体の信用性を否定し,Aの確定審供述の信用性を肯定することに行き着くのである。原決定は,本件再審請求でなされた多数の主張について詳しく説示しているため,趣旨が不明確になった部分も見受けられるが,前記のような趣旨を示したものと理解することができる。原決定は,新証拠の存在を根拠にして,判決裁判所の心証形成に介入しているのであり,その判断手法は違法,不適切なものではない。
7
結語

したがって,本件即時抗告は理由がないので棄却することとし,刑訴法426条1項により,主文のとおり決定する。
平成29年11月29日
福岡高等裁判所第1刑事部
裁判長裁判官

山口雅髙
裁判官

平島正道
裁判官

髙橋孝

別紙
弁護人目録

主任弁護人

三角恒
弁護人

西同吉井秀広同国宗直子同菅一雄同荻迫光洋同松村尚美同村山雅則同植村礼郎同池田同吉野雄介同井上莉野同益子覚同齊藤誠同野嶋真人同大熊裕起同武村二三夫

同藤本卓
清次郎

泉司以上
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