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再審請求棄却決定に対する即時抗告申立事件
事件番号平成26(く)24
事件名再審請求棄却決定に対する即時抗告申立事件
裁判年月日平成30年2月28日
法廷名仙台高等裁判所
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平成26年(く)第24号
平成30年2月28日

再審請求棄却決定に対する即時抗告申立事件

仙台高等裁判所第1刑事部決定
主文
本件即時抗告を棄却する

第1


本件即時抗告の趣意は,
弁護人阿部泰雄及び同小関眞作成の
「即時抗告申立」
と題する書面及び両名ら作成の補充意見書13通
(誤記の訂正書を含む。に,

これに対する反論は検察官岩﨑吉明作成の意見書に,それぞれ記載されたとおりである。論旨は,要するに,原審で弁護人が提出した新証拠につき,刑訴法435条6号所定の再審事由は認められないとして本件再審請求を棄却した原決定は,その判断を誤ったものであるから,原決定の取消しと再審開始決定を求める,というものである。

第2
1
争点等
本件事案の概要及び確定審の審理経過
本件は,准看護師であった請求人が,平成12年2月2日から同年11月24
日までの間,当時勤務していた仙台市所在の医療法人Aクリニックで,診療を受けていた5名の患者に対し,それぞれ点滴が行われていた際,未必の殺意をもって,点滴ルートを介して,呼吸抑制を引き起こす筋弛緩剤マスキュラックス溶液を各体内に注入して容体を急変させ,うち1名を死亡させて殺害し,他の4名については殺害に至らなかったという,殺人1件及び殺人未遂4件からなる事案である。
そして,本件につき,平成16年3月30日,仙台地方裁判所で請求人を無期懲役に処する旨の有罪判決が宣告され,この判決は,平成18年3月22日の仙台高等裁判所での控訴棄却,平成20年2月25日の最高裁判所での上告棄却の各裁判を経て,同年3月12日に確定した(以下「確定審」という。また,第1審判決を「確定判決」という。)。
2
原審での弁護人の主張の概要
(新証拠の①ないし⑤の番号は,
再審請求書の
「新
証拠の一覧表」における番号に対応している。)


争点1(B鑑定の信用性)
新証拠の①前C大学教授D作成の意見書(以下「D意見書」ともいう。)及び⑤日本薬学会編「薬毒物試験法と注解2006-分析・毒性・対処法-」の抜粋(以下「薬毒物試験法」ともいう。)は,E府警科捜研技術吏員(当時)Bらが,被害者らの生体資料や点滴溶液(以下「鑑定資料」という。)から,マスキュラックスの成分であるベクロニウムを検出したとする確定審での鑑定(以下「B鑑定」という。)の前提が誤っていたことを証するもので,これらによれば,同鑑定には信用性が認められず,鑑定資料中にベクロニウムが含有されていた事実を証明するものではないことになるから,本件各事件の事件性がいずれも否定され,請求人に無罪を言い渡すべきことになる。



争点2(F証言の信用性)
新証拠の②G大学教授(当時)H医師作成の意見書(以下「H意見書」ともいう。)及び④I大学大学院教授(当時)Fの平成13年1月22日付け検察官調書(以下「F調書」ともいう。)は,確定判決でマスキュラックス投与の典型的な事例とされたJ(以下「被害者J」という。)に対する殺人未遂事件マスキュラックスの効果
ンドリア病メラスによるものであることを証するもので,これらによれば,被害者Jの症状がマスキュラックスの効果と矛盾しないとする確定審でのFの証言には信用性が認められず,被害者Jに対する殺人未遂事件の事件性が否定されることとなり,さらには本件各事件の事件性がいずれも否定され,請求人に無罪を言い渡すべきことになる。



争点3(請求人の自白について)
新証拠の③元K大学教授L作成の意見書(以下「L意見書」ともいう。)は,請求人の自白等の証拠の成立過程に関する取調官の証言と請求人の公判供述を踏まえて判断した確定判決の認定を,供述心理の観点から分析し,請求人が犯人ではあり得ないことを明らかにしたというものである。これにより,本件各事件につき請求人の犯人性が否定されるから,請求人に無罪を言い渡すべきことになる。
3
原決定の結論と当審での弁護人の主張の骨子


原決定は,争点1につき,D意見書が刑訴法435条6号の「あらたに発見した」証拠に該当すること,すなわち新規性は直ちに否定できないものの,同号の無罪を言い渡すべき「明らかな証拠」には当たらない,すなわち明白性がないとし,薬毒物試験法についても明白性を否定した。また,争点2につき,H
られるものの,明白性がないとし,F調書については新規性を否定した。そして,争点3につき,L意見書の明白性を否定した。


これに対して,弁護人は,当審での主張(即時抗告の趣意)を争点1のD意見書及び争点2のH意見書に関するものに限定し,D意見書については明白性が認められる,H意見書については

全部につき

明白性が認められる,したがって,これらを否定した原決定は誤っていると主張する。なお,薬毒物試験法,F調書,L意見書については,
「即時抗告申立」
と題する書面で言及がなく,これらに関する原決定の判断に対する不服は即時抗告の趣意に含まれていないとみるほかないが,薬毒物試験法については,当審で類似の新証拠が提出されていることから,併せて当審での判断の対象とする。F調書,L意見書については当審での判断の対象としない。
そこで,以上の整理の下に当裁判所の判断を示すこととする。
第3
1
争点1(B鑑定の信用性)について
B鑑定の内容
B鑑定で用いられた方法は,液体クロマトグラフを用いた液体クロマトグラフィー(以下これらを併せて「LC」ともいう。)と4重極型質量分析計を用いた2段階の質量分析(以下質量分析計と質量分析を併せて「MS」,1段目を「MS1」,2段目を「MS2」ともいう。)を組み合わせたLC/MS/MSである。これは,LCの溶出液をエレクトロスプレーイオン化法(以下「ESI」ともいう。)でイオン化し,これにコーン電圧をかけてMS1に導入し,MS1で選択した1つのイオンであるプリカーサーイオンを,MS1とMS2の間にあるコリジョンセル内でアルゴンと衝突させる衝突誘起解離(イオンが不活性ガス分子に衝突して,構造情報を与えるフラグメントイオンが生じること)により開裂させ,生成されたプロダクトイオンをMS2で分析(これを「プロダクトイオンスキャン」という。)し,記録化するというものである。B鑑定では,ベクロニウム標品と鑑定資料のいずれにおいても,m/z258をプリカーサーイオンとして選択し,m/z356,374,398などのプロダクトイオンスペクトルを観測したことから,鑑定資料にはベクロニウムの含有が認められるとの結論を導いた。
2
D意見書(新証拠①)の内容


ベクロニウムの分子量は557であるから,ESIでベクロニウムをイオン化した場合には必ずm/z557ないし279のイオンが検出される。したがって,ベクロニウム標品からm/z557ないし279のイオンが検出されることを確認してから鑑定資料を分析することが不可欠であるが,B鑑定は,これらを検出しておらず,ベクロニウム標品からm/z258のイオンが検出されるかの確認もしていないから,その分析方法は誤りである。



質量分析装置を使用してベクロニウムの定性分析を行った論文等,すなわち,
弁護人が確定審の控訴審で提出した,外国論文4通(以下「外国4論文」という。)及びM大学教授(当時)N作成の鑑定意見書(以下「N意見書」という。)を確認しても,ベクロニウムからフラグメントイオンとしてm/z258が検出されたとの報告例はない。また,純水に溶解したベクロニウムを直接ESIによりイオン化し,コーン電圧を10ボルトから100ボルトまで10ボルトずつ変化させて衝突誘起解離により開裂させ,MS(ただし,飛行時間型質量分析装置
(TOF)
を使用)
に導入してフラグメントイオンを確認する方法や,
同様にESIによりイオン化し,コーン電圧を60ボルトとしてMS1(ただし,同様にTOFを使用)に導入し,m/z557及び279をプリカーサーイオンとして電圧20ボルトで衝突誘起解離により開裂させ,MS2で分析する方法で実験(以下「H実験」という。)を行った結果,様々なフラグメントイオンが検出されたが,m/z258は検出されなかった。したがって,ベクロニウムはどのように開裂してもm/z258は検出されないから,m/z258をプリカーサーイオンとしたB鑑定は誤りである。
3
原決定の判断の概要


D意見書(新証拠①)について

新規性について
確定審の控訴審でN意見書と外国4論文が提出され,上告審でもDによる同旨の意見書(以下「旧D意見書」という。)が提出されているが,本件のD意見書は,確定判決の確定後に実施されたD実験の結果に基づくものであるから,新規性は直ちに否定できない。


明白性について
B鑑定とD実験との手法の違いについて
まず,B鑑定は,ベクロニウム標品と鑑定資料を,それぞれ同一条件の下で同一方法(LC/MS/MS)により分析し,その結果を比較する比較鑑定であり,双方から同種のイオンが検出されたことなどを鑑定資料にベクロニウムが含有されていたことの根拠としており,プリカーサーイオンとして選択するイオンの分子量そのものや,フラグメントイオンの種類そのものを同定の直接の根拠としていないから,ベクロニウムの分子量に相当するm/z557や279(以下,分子量に等しいm/zの数値のイオン及びこれにプロトンが付加して2価イオンとなったものを「分子量イオン」という。)を検出しなくともベクロニウムの同定が可能とする手法である。これに対し,D実験は,LCを通さずに純水で希釈したベクロニウム標品を直接ESIでイオン化し,MSに導入して分析するというもので,分析方法が異なる。したがって,D実験がB鑑定の信用性を直ちに否定する根拠となり得るか疑問がある。
また,使用する装置や仕様が異なれば,衝突誘起解離のためのコリジョンガスやコリジョンエネルギーが装置依存的に異なり,イオン源の構造やESIのイオン化に用いるキャピラリーの電圧等も大きく異なり,しかも,
後記のとおりベクロニウムがLCの移動相の影響等により分解ないし開裂する可能性も否定できない。そして,D実験とB鑑定とでは,使用する分析機器,LCの付属の有無,測定試料の調整方法も異なっている上,D実験では溶液の濃度等の測定条件が明らかにされていない。したがって,D実験とB鑑定とでは検出されるイオンが異なる可能性は否定できず,D実験の結果をもって「ベクロニウムがどのように開裂してもm/z258は生成されない」との結論を導き出すことには疑問がある。
ベクロニウム標品からm/z258が検出されることについて


再審請求審段階で,検察官の鑑定嘱託により,D意見書で明らかにされている限りの条件,方法によりD実験を再現し,ベクロニウム標品の質量分析を行ったO県警科捜研研究職員Pら作成の鑑定書(以下「P鑑定」という。原審検察官意見書⑴別添資料14)によれば,コーン電圧の強度を変化させて分析した場合,60ボルトまではいずれの場合でもベクロニウムの分子量イオンであるm/z279だけでなく,m/z258も高いピークを示し,ベクロニウムを純水で希釈した状態で時間の経過に従って分析を繰り返したところ,試料調製直後からm/z279だけでなくm/z258も高いピークを示し,時間の経過によってm/z258のピークが高くなった。したがって,ベクロニウム標品からm/z258も検出されることが明らかである。


また,B鑑定でベクロニウム標品からm/z258が検出されなければ,m/z258をプリカーサーイオンとしてプロダクトイオンスキャンをすることはできないはずであるが,Bらがm/z258をプリカーサーイオンとしたことは,各鑑定書のクロマトグラフに「Daughtersof258ES+」との記載があることからも明らかである。したがって,B鑑定ではベクロニウム標品からm/z258が検出されるか確認していない旨のD意見書の批判は前提を欠く。



m/z258は,ベクロニウムの脱アセチル化体(以下,脱アセチル化の機序を問わず,「変化体」ともいう。また,これに対し脱アセチル化していないベクロニウムを「未変化体」ともいう。)の分子量イオンであるが,これが検出される原因としては,ベクロニウムがそもそも不安定な物質で,分析条件や時間の経過次第で容易に加水分解が起こることが実証されていることからすると,①ベクロニウム標品が合成される過程で夾雑物として変化体が混入していた,②分析開始前に作成したベクロニウム溶液中の未変化体が徐々に加水分解した,③分析条件,分析装置次第で,イオン化の過程でベクロニウムの脱アセチル化が起こっていた,という事情が一つ又は複数重なったことによると考えられる。D意見書は,ベクロニウムがLCの移動相の影響等により分解ないし開裂する可能性はないとするが,検察官が再審請求審で提出したBら作成の「D前教授の意見書に対する見解」と題する書面(以下「B意見書」という。原審検察官意見書⑴別添資料9)では,イオン化の段階など種々の要因で分子が開裂することはLC/MS分析では一般的にいわれていること,例えばサルビノリンA(分子量432)はLCの移動相の影響で脱アセチル化体となり,脱アセチル化体のプロトン付加分子に相当するm/z391のピークも検出されていること,ベクロニウムは本来非常に不安定な化合物であることなどから,LCの移動相の影響等により分解ないし開裂が生ずる可能性は否定できないとされており,これには合理性,妥当性が認められる。加えて,検察官が再審請求審で提出したQ作成の「裁判化学分野へのLC/ESI-MSの応用-筋弛緩薬を対象として-」と題する書面(以下「Q論文」という。原審検察官意見書⑴別添資料2)で紹介されている実験結果をみると,LCに用いるカラムのサイズや移動相の流速がベクロニウムとその変化体の検出に影響を与えていることが認められる。したがって,ベクロニウムがLCの移動相等の影響等により分解ないし開裂する可能性は否定できず,これに反するDの意見は採用できない。


以上より,ベクロニウムからm/z258が検出されることは肯定できる。
m/z258をプリカーサーイオンとした手法の合理性



Bらは,B鑑定を実施する以前に,LC/MS及びLC/MS/MSによるベクロニウムの分析を行うための基礎的条件の検討を行うため,ベクロニウムの分析実験を繰り返し行って研究し,その過程で,LC/MSの方法によってm/z258のみが出現するマススペクトルを得て,これを薬毒物分析の専門家からなる学会で発表し(「法中毒」第17巻第2号にも掲載。原審検察官意見書⑴別添資料3),承認を得たことから,その知見をベクロニウムの定性分析に応用し,本件の各鑑定でm/z258をプリカーサーイオンとして選択し,研究時の分析装置と同一の装置を使用し,ほぼ同一の分析条件を設定して質量分析を実施し,しかも,その研究結果に依拠するのみならず,ベクロニウム標品との比較鑑定というより確実性の高い鑑定手法を選択している。かかる分析方法の選択は合理的根拠に基づいている。以上によれば,m/z258をプリカーサーイオンとしたB鑑定の手法にはベクロニウムの定性分析としての正当性を十分に認めることができる。これは,プリカーサーイオンとして他にm/z557や279を選択する方法が存在し得ることに左右されない。


弁護人は,B鑑定の手法では,ベクロニウムの未変化体を検出したか変化体を検出したか区別できないと主張するが,前記「法中毒」によればBらはベクロニウムからm/z258のみが出現するマススペクトルを得た際,同一の分析装置及び分析条件でベクロニウムの脱アセチル化体である3-OHベクロニウムを分析すると,m/z237のみが出現するマススペクトルを得たとされている上,B意見書によれば,他の化合物のLC/MS/MSによる分析では,脱アセチル化体の分子量イオンをプリカーサーイオンとして選択する事例もあるから,ベクロニウムの未変化体の含有を判定するためにm/z258をプリカーサーイオンとする手法は十分合理的である。したがって,弁護人の主張は採用できない。



なお,仮に弁護人がいうように,B鑑定の手法では変化体と未変化体が区別できないとしても,それは検査データから鑑定資料中にベクロニウムの未変化体が存在していたと評価できるかという問題にとどまり,検査資料の適正さや検査データの信頼性等が損なわれるものではない。したがって,B鑑定において,m/z258を検出した事実に疑いは生じず,少なくともベクロニウムの未変化体又は変化体が鑑定資料中に存在したことは強く推認できる。そして,確定判決の事件性認定根拠(鑑定資料からベクロニウムが検出されたこと及び各被害者の急変症状がマスキュラックスの投与による効果と矛盾せず,他に各被害者の急変症状を説明づける原因が認められないこと)のうち,ベクロニウム検出の点が,その変化体検出と事実認定が変わったとしても,変化体がマスキュラックスの成分であるベクロニウムの分解物又は代謝物であること,ベクロニウムが体内で生成されることはないこと,各被害者の治療の際にマスキュラックスが投与された事実がないことを踏まえれば,各被害者の体内にマスキュラックスが投与され,各被害者の容体急変が惹起された事実は優に推認されるのであり,確定判決の事件性認定に合理的疑いは生じない。弁護人は,この場合,鑑定資料中にベクロニウムが含有されていたとの要証事実との関係でB鑑定が直接証拠ではなく間接証拠となるから,確定判決の事実認定に合理的疑いが生じるとも主張するが,仮にB鑑定に確定判決と異なる証明力を認めたとしても他の証拠の証明力に影響は及ばず,新証拠と旧証拠を総合して検討しても確定判決の有罪認定に合理的疑いは生じない。結局,B鑑定でm/z258が検出されたことを捉えて確定判決の事実認定に合理的疑いがあるとする弁護人の主張は採用できない。
以上によれば,D意見書に明白性はなく,刑訴法435条6号所定の無罪を言い渡すべき明らかな証拠に当たらない。


薬毒物試験法(新証拠⑤)について
弁護人は,薬毒物試験法にベクロニウムのフラグメントイオンとしてm/z258が挙げられていないこと及びESIによるイオン化では分子量イオンが検出されていると記載されていることがB鑑定や確定審でのB証言と齟齬していると主張するが,同文献の分析は試料を直接イオン化部に導入する方法で行われていてB鑑定と方法が異なる上,分子量イオンに関する記載も,それ以外のイオンが検出されないとの前提に立っているとは読み取れないから,B鑑定やB証言と齟齬しない。したがって,薬毒物試験法にも明白性がなく,刑訴法435条6号所定の無罪を言い渡すべき明らかな証拠に当たらない(原決定には,薬毒物試験法の新規性について記載がないが,これが肯定されることを前提としているものと解される。)。
4
当裁判所の判断


確定記録を含む一件記録を総合すれば,D意見書及び薬毒物試験法につきいずれも新規性を肯定し,明白性を否定した原決定の判断は,D意見書の新規性を肯定した点には後記のとおり疑問があるが,いずれについても刑訴法435条6号所定の無罪を言い渡すべき明らかな証拠に当たらないとした結論は正当であって是認できる。また,原決定が理由として説示するところの判断過程も概ね相当として是認できる。以下,所論に鑑み付言する。



D意見書(新証拠①)の明白性について

所論は,D意見書によりベクロニウムからm/z258が検出されないことが証明されたから,原決定が,ベクロニウムからのm/z258検出を肯定し,m/z258をプリカーサーイオンとしたB鑑定の手法が合理的であるとして,D意見書の明白性を否定したのは誤りである,と主張する。

しかし,B鑑定がイオン化に用いたESIは,開裂(なお,当裁判所の判断部分では,便宜上,イオン化以降の段階でフラグメントイオンが生じる場合を「開裂」と称し,LC以前の段階で生じる脱アセチル化を「加水分解」ないし「分解」と称することとする。)が起こりにくいイオン化法であるといわれているが,コーン電圧を変化させることによりMSへの導入前に分析対象化合物を開裂させてフラグメントイオンを生成することができることはD意見書も述べるとおりである上,イオン源の段階でのキャピラリー電圧の影響や,イオンをスプレーする窒素ガス分子との衝突,同時にイオン化された移動相その他の物質のイオンとの衝突等により,条件次第で開裂が生じ,フラグメントイオンが生じる可能性も否定できない。このように,化合物がESIによりイオン化されMSに導入されるまでには様々な可変要素があるため,装置や条件が異なれば,検出されるイオンが変化する可能性があり,ESIでイオン化した場合には分子量イオンしか検出されないとか,分子量イオンが常に主要なイオンとして検出されるなどとはいえない。
したがって,ベクロニウムの未変化体をESIによりイオン化した場合は必ずm/z557,279が検出されるとしたD意見書の結論は採り得ず,イオン化及びMSへの導入の段階で開裂が生じ得ることを前提にm/z258が検出され得るか否かを検討すべきこととなる。
この点,開裂は化学構造を反映して一定の機序をもって生じると考えられるところ,D意見書は,開裂の機序には言及せず,m/z258がベクロニウムの脱アセチル化体の分子量に相当するイオンであり,ベクロニウムに由来するものであることが明らかであるのに,なぜ開裂によってフラグメントイオンとしては生成され得ないのか,その理論的な根拠を何ら示すことなく,要するに,外国4論文等にm/z258の記載がないこと,及び,D実験でm/z258を検出しなかったことから,ベクロニウムからm/z258は生成されない,との結論を導いている。
しかし,外国4論文等は,原決定が説示するとおり,いずれもベクロニウムからm/z258が検出され得ることを排斥する内容ではない。また,D実験については,そもそもフラグメントイオンのピークの表れ方は前記のとおり装置や条件により異なるところ,使用した分析機器,LCの付属の有無,測定試料の調整方法等がB鑑定と異なっている上,溶液の濃度等の測定条件も明らかにされていないことは,原決定が説示するとおりである。加えて,D実験のマススペクトルでもm/z258を含むm/z557,279以外のイオンが検出されていることは明らかで,D実験はベクロニウムから検出されるイオンがm/z557,279に限られることの根拠とはならない。D自身,原審に提出した補充意見書でD実験の際に特定の条件でm/z258が検出されていたことを認めた上で,これはベクロニウム標品の精製段階で微量だけ残存してしまう,不純物としてのベクロニウムの分解物を検出したものであり,ベクロニウムイオンが開裂して生成したものとみるべきではないと述べているが,その根拠は何も示されていない。そうすると,D実験は,ベクロニウムからイオン化の段階でm/z258が生じ得ないことを証明するものとはいえず,その証拠価値は,単に特定の条件でm/z557,279及びm/z258を含むその他のイオンを検出したというものにとどまり,多数回の実験を繰り返してm/z258がベースピークとなる手法を確立したとするB鑑定を凌駕するようなものとはいえず,
これを排斥するようなものともいえない。
所論は,D実験はベクロニウムイオンが開裂してもm/z258が生成されることはないことを示すためのものであるから,手法が異なっても問題はないとも主張するが,D実験によってかかる結論が示されたとはいえない上,分析機器や条件により検出されるイオンが異なり得ることは前記のとおりであり,全く異なる条件で行った実験がB鑑定の信用性を弾劾するとはいえない。
したがって,D意見書には,科学的にベクロニウムの未変化体からm/z258が検出され得ないことの理論的根拠は示されていない上,そこに挙げられた根拠は,そのような一般的な結論を導くには薄弱というほかなく,その合理的疑いを生じさせるものともいえない。以上によれば,ベクロニウムからm/z258が検出され得るとした原決定の認定に誤りはない。なお,所論は,再審請求審において,m/z258は未変化体に由来するものではないことが明らかとなり,このことは,裁判所,検察官,弁護人の三者に共有されているなどと主張するが,原決定は,D実験によってベクロニウムからm/z258が生成されないとの結論を導き出すことには疑問があるとし,イオン化の過程で脱アセチル化が起こる可能性があるとしているのであるから,m/z258が未変化体から検出され得ることを前提としていることは明らかであり,所論の理解は誤っている。ウ
そして,m/z258がベクロニウムに由来する,ベクロニウムの脱アセチル化体の分子量に相当するイオンであることに加え,B鑑定が,これを衝突誘起解離により開裂させて構造を分析するというLC/MS/MSの手法を用いた上,標品との比較で定性を行っていることに照らせば,ベクロニウムの未変化体の定性のために,m/z258をプリカーサーイオンとすることに何ら問題はない。D意見書は,B鑑定がm/z258をプリカーサーイオンとしたのは誤りであるとしているが,ベクロニウムからm/z258が生成されないことを前提としており,これに根拠がないことは前記のとおりである。
所論は,m/z258をプリカーサーイオンとすると変化体と未変化体を区別できず,定量にも問題が生じるとも主張するが,Bは,鑑定当時,実験を繰り返した結果,ベクロニウムの未変化体からm/z258を,脱アセチル化体からはm/z237を検出する手法を確立しており,前同様にこのこと自体の合理性も否定されない上,その知見を踏まえてB鑑定が行われたのであるから,未変化体と変化体の区別ができないなどとはいえず,定量に問題があるとも考えられない。

所論は,ベクロニウムの分子量イオンであるm/z557,279が検出されなければベクロニウムの定性が不可能であると主張し,これは,ある化合物からは常に分子量イオンが検出されることを科学的に不変の大前提と位置付け,
鑑定資料からその分子量イオンが検出されれば化合物が同定できる,との理解(所論のいう「三段論法」)を前提としているものと解される。しかし,前記のとおり,装置や条件が異なれば,検出されるイオンが変化する可能性があり,その結果得られたスペクトルを既存のライブラリないしデータベースに当てはめて化合物を同定することは困難であるとされている上,同じ分子量の化合物も存在し得るのであるから,フラグメントイオンによる構造分析や標品との比較をせずに,ほぼ整数で表される分子量イオンの検出のみから定性が可能であるとは考え難く,そもそも所論が前提とする理解自体に疑問がある。

以上によれば,D意見書によってもB鑑定の信用性は揺るがず,これと旧証拠とを併せて検討したとしても,鑑定資料中にベクロニウムが含有されていた事実に合理的疑いは生じない。したがって,D意見書に明白性がないとした原決定の判断に論理則,経験則違反はなく,誤りはない。


なお,イオン化やMSへの導入段階で開裂によりm/z258が生じることに合理的疑いが生じない以上,D意見書に明白性があるとみる余地はないが,原決定は,イオン化より前の段階での加水分解等の結果m/z258が検出される可能性についても言及しているため,一応検討を加えておくこととする。
まず,イオン化以前の加水分解として,試料をLCに導入後,移動相等の影響で分解が生じることが考えられるが,イオン化段階以降で生じる開裂も,LCの段階で生じる分解も,結局のところ分子の結合が分離ないし分裂するという解離の一場面に過ぎず,最終的にイオンを開裂させて構造を解析するというプロダクトイオンスキャンの目的に鑑みれば,LCの段階でベクロニウムが脱アセチル化したとしても,ベクロニウムを分析したことに変わりはない。所論は,開裂によってアセチル基が脱落してm/z258が生成されたのか,LCの段階で加水分解によってアセチル基が脱落してm/z258が生成されたのかを分けて論じ,後者の場合ベクロニウムが検出されたことにならないという前提に立っているが,十分な根拠があるとは考え難い。D意見書は,移動相は化合物を分解させないように選択・調整されているから,ベクロニウムがLCの移動相の影響等により分解する可能性はないとするが,サルビノリンAではLCの移動相の影響で脱アセチル化したイオンが検出されることや,Q論文で紹介されている実験結果から,LCの移動相の影響で分解が生じる可能性があることは,原決定が説示するとおりである。D意見書の記述は,移動相での分解が生じないようにすべきであるという考え方を示したものにとどまり,LCの移動相で分解が生じる可能性を否定する根拠とはなっていない。仮に,B鑑定において,LCの移動相内で分解が起こっていたとしても,すべての鑑定において同じ条件で分析が行われた以上,標品も鑑定資料も同じ機序で分解が生じたと考えられ,ベクロニウムの定性や定量に問題があるとは解されない。
また,原決定は,原審検察官意見書⑴にそって,①標品中に夾雑物として脱アセチル化体が含まれていた可能性や,②分析開始前にベクロニウムが加水分解した可能性についても検討しているところ,①については,マスキュラックスのインタビューフォームにも記載がある上,前記のとおりDも補充意見書で言及しており,
②については,
B意見書では標品の溶解,
希釈の際に加水分解させないよう留意していた旨の記載があるものの,ベクロニウムが加水分解しやすい性質を有することはB意見書も指摘しており,原決定が説示するとおりであるから,これらの事情により,分析開始前から標品や鑑定資料に変化体が存在していた可能性もある。
そして,仮にB鑑定がこれらの変化体を,変化体として検出したというものであったとしても,変化体は,ベクロニウムの脱アセチル化体であってベクロニウムからしか生じず,体内で生成されることは決してなく,治療に用いられた他の薬物等から生成されることもないのであるから,変化体の検出は,ベクロニウム未変化体が存在したことを端的に示すものであり,未変化体を検出したという間接事実の証明力と,それに由来する変化体を検出したという間接事実の証明力は,点滴にマスキュラックスが混入されたという要証事実との関係で何ら違わない(夾雑物としての変化体を検出した場合であっても,夾雑物だけが体内に投与されることはあり得ないから結論は変わらない。)。この点,Bは,確定審で,未変化体を検出した旨を証言しており,確定判決や確定審の控訴審判決もそれを前提とした説示をしているが,仮にBが実際は変化体を検出したのに,未変化体を検出したものと誤解していたとしても,その鑑定手法自体の信用性に影響するものではないから,B鑑定によって鑑定資料から変化体が検出されたという事実自体に疑いの余地はない。したがって,これを前提として旧証拠全体を含めて再検討しても,確定判決の認定に合理的疑いは生じず,D意見書には,やはり明白性がない。
所論は,マスキュラックスの性質を記載した製薬会社のインタビューフォームによれば,マスキュラックスを混合した点滴溶液や,マスキュラックスを投与した人の血液からは,
ベクロニウムの未変化体のみが検出され,
変化体は検出されない,などと主張するが,インタビューフォームの点滴溶液に関する記載は混合後24時間までのものに過ぎず,混合後1か月以上を経過してから行われたB鑑定に妥当するものとはいえないし,血液に関する記載は分析の時点が不明である上,前後の文脈からは代謝物としての変化体が検出されなかった旨を述べるものと解され,時間の経過により加水分解が起こる可能性まで否定するものとは考えられない。これは,原審で検察官から提出されたI大学名誉教授R作成の意見書(原審検察官意見書⑴別添資料12)も指摘するとおりである。そして,インタビューフォームには,水溶液中では加水分解が急速に進むことや,ベクロニウムを体内に投与した場合代謝物として変化体が生成されること,投与した患者の尿からは変化体が検出されたことの記載もあり,所論の指摘するところは,ベクロニウムが投与された場合に鑑定資料から未変化体しか検出され得ないことの根拠とはならない(なお,インタビューフォームには,変化体にも筋弛緩効果があり,未変化体よりやや弱い旨の記載もある。)。また,所論は,B鑑定が未変化体ではなく変化体を検出したものだとすると,確定判決の証拠構造が揺らぐから,再審開始は免れない,などとも主張するが,前記のとおり,未変化体を検出したという間接事実の証明力と,それに由来する変化体を検出したという間接事実の証明力は,点滴にマスキュラックスが混入されたという要証事実との関係で違いはなく,いわゆる証拠構造が動揺するということもないし,旧証拠の評価のかさ上げなどを要するということもない。所論の主張は,鑑定資料にベクロニウムが含有されることを要証事実として,未変化体の検出を直接証拠と位置付けるという独自の見解に基づくもので,確定判決もそのような捉え方をしていないことは明らかであるから,採用できない。

その他,所論が縷々主張・指摘する諸点を含めて検討しても,D意見書に明白性があるとみる余地はなく,これが刑訴法435条6号所定の無罪を言い渡すべき明らかな証拠に当たらないとした原決定の結論に誤りはない(なお,原決定には,所論が指摘するように,用語の説明に若干不正確な点がみられるが,結論に影響するものではない。)。



D意見書(新証拠①)の新規性について
原決定は,弁護人が,確定審の控訴審段階から,ベクロニウムを質量分析するとm/z557ないしm/z279が検出されるもののm/z258は出現しないと主張し,N意見書及び外国4論文が提出され,上告審では旧D意見書が提出されていたことを認定しながら,Dが確定判決後に行った実験の結果に基づきD意見書を作成したことから,証拠の新規性が直ちに否定できないと結論付けている。
しかし,証拠の新規性とは証拠の未判断資料性であり,刑訴法435条6号にいう「あらた」な証拠とは裁判所による実質的な証拠価値の判断を経ていない証拠を意味すると解すべきところ,科学的分野における専門家の意見書については,その内容が従前のものと結論を異にするか,あるいは結論を同じくする場合であっても鑑定等の方法又は基礎資料が異なり,それが従前のものと証拠資料としての意義,内容を異にしていて裁判所が実質的な証拠価値の判断をしていない新たな証拠といえるものにつき,新規性が認められるものと解すべきである(なお,確定審において,有罪判決の基礎となった鑑定等と,同一事項に関し結論の異なる別の鑑定等がある場合,いずれとの関係においても鑑定等の方法又は基礎資料が異なるなど,証拠資料としての意義,内容を異にする必要がある。)。
そして,旧証拠における基礎資料によって,同様の判断内容やこれを導いた主要な根拠等が既に記述され,裁判所の検討を経ているのであれば,新たな基礎資料が追加されたものであっても,既に裁判所が実質的に証拠価値の判断をした旧証拠に表れた意見書等と同様の価値しかないから,新規性は認められないと解するのが相当である。
本件では,前記のとおり,弁護人は,確定審の控訴審段階からベクロニウムからm/z258は検出され得ない旨の主張を始め,控訴審裁判所は判決でm/z258のイオンが変化体に由来するものでないことは明らかである旨を説示し,上告審裁判所は判決で弁護人らの主張は刑訴法405条の上告理由に当たらないとした上で,「なお,所論はBらの行った鑑定には多々疑問があると主張するが,所論にかんがみ記録を精査しても,被告人が筋弛緩剤マスキュラックスを点滴ルートで投与することにより本件各犯行を行ったとした原判断につき,判決に影響を及ぼすべき法令違反又は重大な事実誤認を発見することはできず,同法411条を適用すべきものとは認められない。」と説示して,上告を棄却している。
そうすると,旧D意見書には,N意見書や外国4論文を基礎資料としてD意見書と同様の判断内容が記述されており,これが裁判所の実質的な証拠価値の判断を経ていることは明らかであるところ,D実験は,前記のとおり,特定の条件でベクロニウムからm/z557,279及びm/z258を含むその他のイオンを検出したというものにとどまり,基礎資料としての価値は外国4論文等を実質的に超えるようなものではなく,D意見書がその判断を導いた主要な根拠は,要するに化合物の分析は分子量イオンを検出してから行うべきであるという考えにあって,旧D意見書と異なるとはいえない。したがって,その意義内容においてD意見書と旧D意見書が異なるとは認められない。そうすると,
D意見書は,
その新規性にも大きな疑問があるというほかない。


薬毒物試験法(新証拠⑤)及び当審で提出された新証拠について薬毒物試験法の記載は,分子量イオン以外のイオンが検出されないとの前提に立っているとは読み取れないから,B鑑定やB証言と齟齬しないとして明白性を否定した原決定の判断に論理則,経験則に反するところはない。弁護人は,当審で,いずれもBによる,平成10年3月の日本薬学会第118年会での報告(新証拠⑥),平成13年3月の「毒劇物テロ対策セミナー」中の原稿(新証拠⑦),平成14年7月の「薬毒物分析実践ハンドブック」中の原稿(新証拠⑧),平成18年の「法科学技術」中の表(新証拠⑨)を提出し,所論は,これらに基づき,Bが新証拠⑦の時点まではベクロニウムからm/z258が検出されると記述していたのに,新証拠⑧以降はm/z557やm/z279が検出される旨を記述しているから,B自身もベクロニウムからm/z258が検出され得ないことを認識していた,などと主張する。しかし,新証拠⑧,⑨を検討しても,ベクロニウムからm/z258が検出され得ないなどとの記載はない上,Bが,新たな分析手法を研究する中で,m/z557やm/z279をプリカーサーイオンとする手法の知見を得たとしても,m/z258をプリカーサーイオンとする手法の信用性が直ちに揺らぐというものでもない。したがって,新証拠⑥ないし⑨についても,明白性がないことが明らかである。

第4
1
争点2(F証言の信用性)について
F証言の内容及び確定判決の判断
確定審で,Fは,事実経過等を踏まえ,被害者Jにみられた各症状は,マスキ
ュラックスの投与による効果と矛盾しないか,
符合するものであるなどと指摘し,
被害者Jの容体急変の原因は,体内にマスキュラックスが投与されたことによる直接的な作用と,その二次的な作用である低酸素血症,高炭酸ガス血症の作用として説明が可能である旨証言した。
これに対し,弁護人は,被害者Jの急変症状の内容や事実経過はマスキュラックスの投与による効果と矛盾するとし,急変の原因はプリンペランの副作用,アセトン血性嘔吐症(自家中毒)及び急性脳症等の脳症が考えられるなどと主張したが,確定判決は,頭部CT検査の結果等も踏まえてこれらを排斥し,F証言の正当性を肯定した。そして,容体急変はマスキュラックスの投与により説明が可能であるから,他に急変を説明する(少なくとも,その具体的な可能性を残す)原因が見出せない限り,マスキュラックスの投与によるものと認めるのが相当であると判断した。
2
H意見書(新証拠②)の内容と弁護人の主張
H意見書は,

被害者Jの症状経過は,神経内科学的にみて,マスキュラック

ス中毒によっては全く説明がつかず,

症状経過と検査所見の全てを矛盾なく合

理的に説明できる病態はミトコンドリア病メラス(ミトコンドリア脳筋症・乳酸アシドーシス・脳卒中症候群又は卒中様症状を伴うミトコンドリア病)という急性脳症である,とするもので,弁護人は,これに基づき,確定判決は,被害者Jの急変の原因がマスキュラックスの投与によるものとして説明可能であるとしたF証言の信用性を認めた点,及び,他に被害者Jの症状を合理的に説明づける疾患等の原因が認められないとした点で,いずれも誤りであると主張する。3
原決定の判断の概要


H意見書(新証拠②)の新規性について

確定審では,各被害者の容体急変はマスキュラックス投与の作用によっては説明できない旨の弁護人の主張を踏まえ,Fを含む複数の医学的専門家の証人尋問等が行われ,確定判決ではFの見解の正当性が肯定され,容体急変の原因はマスキュラックスの投与によるとの説明が可能であると判断されている。そして,確定審で既に当該立証命題に対して医学的専門的知見に関する鑑定,証人尋問,意見書等の証拠調べが行われていた場合,再審請求で同一の立証命題に対して提出された医学的専門的知見に基づく意見書に新規性があるといえるためには,医学的専門的知見に基づく鑑定ないし意見書の代替性に鑑み,判決確定の後に作成されたもので,かつ,確定審で取り調べた旧証拠と結論が異なるというだけでは足りず,旧証拠では用いられなかった新たな鑑定方法あるいは新たな経験則に基づくものであること,又は新たな基礎資料によるものであることを要するというべきである。しかるに,H意Jの症状に関し,確定審での鑑定で用いられ
なかった基礎資料を新たに用いたものではなく,新たな鑑定方法や医学的経験則によるものでもなく,同じ基礎資料に基づき,専門的立場から異なる評価を行って,F証言を論難するものである。したがって,H意見書のうち部分は新規性がない。

確定審で弁護人の主張を踏まえて証拠調べが行われ,確定判決は被害者Jの急変原因が急性脳症等の脳症ではないことが明らかであるとの判断を示しているが,ミトコンドリア病メラスという具体的な疾患の可能性については確定審で問題とされておらず,
急性脳症が幅広い概念であることに照らせば,
これを否定する確定判決の判断がミトコンドリア病メラスを否定する趣旨を含むものとは解されない。したがって,H意見
新規性を肯定するのが相当である。


H意見書(新証拠②)の明白性について

部分について
再審請求審で検察官から提出されたS医療研究センター医Tの意見書(原審検察官意見書⑵別添資料2。以下「T意見書」という。)には十分に合理性,妥当性が認められる。これによれば,まず,ミトコンドリア病の確定診断のためには,生化学,病理学,分子遺伝学の各検査によりミトコンドリア異常が確認されることが重要であるところ,被害者Jについてはこれらの検査がいずれもなされていない。また,被害者Jの乳酸値が高い数値を記録したのは点滴治療の影響によるものと考えられる。さらに,被害者Jの脳画像にミトコンドリア病の臨床所見は認められず,難聴や肥大性心筋症を含めたその他の各症状も,低酸素血症等のその他の原因によって説明可能であり,ミトコンドリア病の積極的な所見とはいえない。そして,被害者Jがミトコンドリア病の認定基準の確実例に該当するとするH意見書には多くの疑問がある。したがって,被害者Jの急変原因がミトコンドリア病メラスである具体的可能性は認められず,
Hイ
部分について
いては新規性が否定されるが,念のため明白性について検討し
ても,H意見書が指摘する被害者Jの各症状はいずれもマスキュラックスが投与されたとして矛盾するものではないから,これらがマスキュラックスの投与では説明できないとする意見は採用できない。
れる。



以上により,H意見書は,F証言の証明力や,被害者Jの急変原因がマスキュラックスの投与によるものであるという確定判決の推認を妨げるものではないから,刑訴法435条6号所定の無罪を言い渡すべき明らかな証拠に当たらない。

4
当裁判所の判断


確定記録を含む一件記録を総合すれば,H意見書
新規性を肯定し明白性を否定した原決定の判断

全体として

刑訴法435条6号所定の無罪を言い渡すべき明らかな証拠に当たらないとした結論は正当であって是認できる。また,原決定が理由として説示するところの判断過程も概ね相当として是認できる。以下,所論に鑑み付言する。⑵

H意見書(新証拠②)の

について

新規性について
所論は,H意見書の

原決定が新規性を否定したのは,白鳥

決定(最高裁昭和50年5月20日決定)以前の再審制度が活性化していない時期に存在した見解に依拠したものであり,「裁判所による判断未了性」により新規性を認めるべきであるから,誤りであるなどと主張する。この点,証拠の新規性の意義は,D意見書に関する判断部分で説示したとおりであって(第3の4⑶),要するに証拠の未判断資料性であり,科学的分野における専門家の意見書については,その内容が従前のものと結論を異にするか,あるいは結論を同じくする場合であっても鑑定等の方法又は基礎資料が異なり,それが従前のものと証拠資料としての意義,内容を異にしていて裁判所が実質的な証拠価値の判断をしていない新たな証拠といえるものにつき,新規性が認められるものと解すべきである。そして,専門家というのは特定の者に限られず,代替性があるから,単に専門家が従前と異なるということのみによっては証拠の新規性は認められないというべきであり,原決定が,(3⑴ア)
前記
のとおり新規性の判断基準につき説示したところは,
要するに,証拠方法(専門家)としての新規性ではなく,証拠資料としての未判断資料性を要求したもので,その内容に誤りはない。
H意見書の

部分についてみると,基礎資料は,確定審でF及びU医師ら

によって繰り返し検討された被害者Jの症状にほかならず,
鑑定等の方法も,
記録に現れた被害者Jの症状を医学的に検討するという,FやUによって採られた手法と何ら異ならない上,結論は,確定審で被害者Jの症状はマスキュラックスによるものではない旨述べたUの証言と変わるものではない。そうすると,

旧証拠の内容を踏襲するもので,確定審で

証拠価値の判断を経ているというほかないから,新規性があると評価するこ部分の新規性を否定した原決定の結論にも誤
りはない。
その他の所論を検討しても,

部分につき,H意見書の新規性は認められ

ない。

明白性について
所論は,原決定が,H
否定した点につき,医学的根拠のない素人判断であって誤りである,などと主張する。
しかし,原決定の説示は,いずれも確定審段階で示されたFら専門家の意
基本的に確定判決で判断の示された旧証拠の内容を踏襲するものであることは前記のとおりであるから,原決定の説示がH意見書の明白性を排斥するのに不十分であるということもない。


H意見書(新証拠②)の

について

明白性について
所論は,H
して,以下のように主張する。
まず,所論は,原決定が被害者Jの腹痛と嘔吐の症状を考察外としたことは究明の途を閉ざすもので,個別の症状や検査データの全てを一つの疾患で説明できるか否かが重要である,などと主張する。
しかし,本件では被害者Jの生体資料からベクロニウムが検出され,マスキュラックスが投与されたことが明らかになっており,それ以前の症状とそれ以降の症状が一つの疾患で説明できないのは当然であるから,所論の主張自体が失当というほかない。H意見書は,マスキュラックスの投与がなかったことを前提に被害者Jの症状を一つの疾患で説明しようとしたものであるが,前記のとおり,マスキュラックスの投与があったとの確定判決の事実認定に合理的疑いは生じないから,これを前提としないH意見書は確定判決に対する反証とはなっていない。
なお,所論は,検査とは独立に症状経過を合理的に説明できる疾患を総合判断すべきで,説明できない検査結果は棄却されるべきであるとし,Hの診断(ミトコンドリア病メラス)からはB鑑定やマスキュラックス中毒説は説明できないから棄却されるべきである,などとも主張する。しかし,マスキュラックスが投与されれば人体に影響を与えることは明らかであるのに,自説からは説明がつかないからといってこの客観的事実を無視して良いなどとの考えが採り得るはずもない。
そして,所論は,H意見書に基づき,被害者Jの症状はミトコンドリア病メラスによって説明が可能で,マスキュラックスの作用によるものではない,と主張する。
しかし,被害者Jがミトコンドリア病メラスであるとのHの診断自体が信用できないことは,原決定が説示するとおりである。
Hは,T意見書に「ミトコンドリア機能異常はあらゆる症状を引き起こす可能性があり,ある症状を『ミトコンドリア機能異常によらない』と否定することはほぼ不可能である。」との記載があることなどから,Tも被害者Jの症状がミトコンドリア病以外にはあり得ないと思っている,などと述べるが,この疾病の権威であるTが自らと同じ結論を採っているかのように無理にこじつけるもので詭弁というほかなく,Hの診断の在り方を厳しく論断するT意見書がそのような結論を採っていないことは明らかである。
そして,そもそも刑事裁判における事実認定は,過去のある時点での事実についての歴史的証明であり,将来に向かって患者を治療することを目的とする医療的な診断や,医療費の助成を目的とした基準による認定とは性質を異にするものであるから,ある患者について,治療目的あるいは医療費の助成等の目的で,その時点で観察される症状からある病名が診断あるいは認定されることと,刑事裁判における事実すなわち歴史的事実として,過去の特定の時点でいかなる疾病に罹患していたかが判断されることとは,当然に異なり得る。したがって,ある患者のある時点での症状が医療的に特定の疾病によって説明可能であったとしても,そのことのみから回顧的に刑事裁判でその患者がその疾病に罹患していたと判断できるというものではない。
本件では,被害者Jの生体資料からベクロニウムが検出されたという客観的事実が存在し,被害者Jの症状がマスキュラックスの効果で説明できるとの判断が確定しており,これに合理的疑いを生じさせるには,少なくとも,被害者Jの症状が別の疾病で説明可能であることが,明白かつ客観的な根拠に基づき示されなければならない(確定判決が,本件各被害者の症状がマスキュラックスの投与によると判断する際に,それ以外に容体急変時の症状を合理的に説明し得るか,少なくともその具体的な可能性を残す疾患等の原因がないとして,「合理的説明」ないし「具体的可能性」を求めているのも同旨である。)。とりわけ,遺伝子疾患であるミトコンドリア病のように,特異的で顕著な症状がなく,様々な症状が発現し得る疾病で,確固たる診断基準も存在しないものについて,遺伝子検査の結果も示さず,外形的に観察された症状からこれに該当し得ると強弁しても,体内からベクロニウムが検出されたという明白な根拠を伴う確定判決の判断に合理的疑いを生じさせることにはならない(なお,遺伝子検査につき,H意見書に「第一部参考文献1」として引用された同人作成の英語論文には,被害者Jの家族が「検査をしても変わらない」などと述べて同意しなかったため遺伝子検査はできなかった旨の記載があり,このこと自体,H自身が遺伝子検査の重要性を認識していたことを示しているが,同人が添付した訳文にはこの部分の記載がない。また,Hは,この英語論文によって,被害者Jがミトコンドリア病メラスであることは海外にも承認されているなどとし,自らの見解が正しい旨主張するが,当該論文自体,H自身によって書かれたものである上,症例報告の体裁をとっていながら自らが実際に診察した患者ではないことや,弁護側専門家としての関与という利害関係を有していることなど,倫理上要求される事柄の記載もなく,査読者や査読態勢,掲載誌の位置づけや重要性等も不明であって,Hの見解を客観的に裏付けるものなどとはおよそ評価できない。)。
以上によれば,H

明白性を認める余地はなく,明白性

を否定した原決定の判断に論理則,経験則に反するところはない。イ
新規性について
原決定はH
定しているが,H意見書は,被害者Jの各症状別に「マスキュラックスでは説明不能,急性脳症なら説明可能」と立論し,これをミトコンドリア病メラスと診断した根拠としていて,

での専門家によって採られた手法と異ならない上,ミトコンドリア病メラスが前記のとおり特異的で顕著な症状がなく様々な症状が発現し得る疾病で確固たる診断基準も存在しないものであるのに対し,急性脳症は確定判決において被害者Jの急変原因として明確に否定されていることからすれば,被害者Jの症状に「ミトコンドリア病メラス」との診断名を付けたというにとど,確定審で当該具体的疾病名が問題とならなかったとい
う理由から新規性を肯定した原決定の判断には,
疑問があるというほかない。


その余の点を含め,所論が縷々主張するところを踏まえ,H意見書と旧証拠とを併せて検討しても,F証言の信用性は揺るがず,被害者Jの症状がマスキュラックスの効果によることに合理的疑いは生じない。したがって,H意見書が刑訴法435条6号所定の無罪を言い渡すべき明らかな証拠に当たらないとした原決定の結論に誤りはない。
第5

結論
以上によれば,本件につき刑訴法435条6号に該当する事由はないとした原
決定に誤りはなく,論旨は理由がない。
よって,刑訴法426条1項により,主文のとおり決定する。
(なお,弁護人は,当裁判所に対して,Bの証人尋問等の事実の取調べや,検察官に対する証拠開示の命令を求めているが,事実の取調べについては,弁護人が提出した新証拠の意味するところはいずれも明白で,さらに証人尋問等を行う必要性が認められず,証拠開示については,本件の争点1に関係する証拠に関しては検察官が任意開示に応じると言明し(ただし,検察官手持証拠がなかったため開示には至らなかった。),B鑑定に用いた器材に関する求釈明に応じるなどしていたため証拠開示命令を発する必要がなく,それ以外の証拠については再審請求審において争点となっていない部分に関するものであり,かつ,弁護人提出の新証拠を検討しても,証拠の開示の必要性が認められない。したがって,いずれについても職権を発動しないこととした。)
平成30年2月28日
仙台高等裁判所第1刑事部

裁判長裁判官

嶋原文雄
裁判官

行方美和
裁判官

根崎修一
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