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殺人被告事件
事件番号平成29(う)642
事件名殺人被告事件
裁判年月日平成30年10月31日
法廷名大阪高等裁判所
結果破棄自判
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平成30年10月31日宣告

大阪高等裁判所第6刑事部判決

平成29年(う)第642号

殺人被告事件
主文
原判決を破棄する
被告人は無罪
理由
成の控訴趣意書に記載のとおりであり,論旨は,事実誤認及び量刑不当である。本件では,当審において事実取調べが行われているところ,これを踏まえた検察
主任弁護人及び弁護人ら連名作成の「弁論要旨」と題する書面に,それぞれ記載のとおりである。
第1

本件公訴事実

本件公訴事実の要旨は,被告人は,平成26年7月12日頃,当時の自宅である大阪市a区内のマンション居室(以下「本件居室」という。)において,交際相手である当時21歳の女性(以下「A」という。)に対し,殺意をもって,手及び腕でその頸部を絞め付け,よって,その頃,同所において,Aを頸部圧迫による窒息により死亡させた,というものである。
第2

原審の審理の概要,原判決の内容及び事実誤認の論旨

1
原審の審理の概要



本件は,裁判員裁判対象事件であり,前記公訴事実を巡り,公判前整理手続
において,主張と証拠の整理が行われた。弁護人は,当初,殺意を争うが,被告人の行為が傷害致死の構成要件に該当することは争わず,過剰防衛が成立すると主張していたが,その後Aの死因について争うこととなったため,裁判所は,既に指定していた裁判員裁判の公判期日の指定を取り消し,更に公判前整理手続を進め,結局,第1回公判期日が開かれたのは,公判前整理手続に付する決定から約2年3か
月後であった。


その主張整理の要点は,以下のとおりである。


原審検察官は,被告人が,殺意をもってAの首を手や腕で絞め,Aを頸部圧
迫による窒息により死亡させたもので,原審弁護人が主張するようなAの異常な行動(Aが突然被告人の手をAの口に入れて噛むといった行動)はなかった,と主張した。

これに対し,原審弁護人は,以下のとおり,被告人は無罪であると主張した。
すなわち,被告人は,突然被告人の手を口に入れて噛むという異常な行動をしたAを制止するため,失神させよう(落とそう)としてブラジリアン柔術の絞め技である「バックチョーク」(相手の気道を塞がず,肘を支点として腕を相手の頸部に巻き付け,頸動脈を閉塞して相手を気絶させる技。以下「バックチョーク」という。)でAの首を左腕で絞めただけで殺意はなく,その際,Aが危険ドラッグ使用の影響により死亡したにすぎないから,被告人は無罪である。

原審裁判所は,前記各主張を法的に整理し,本件の争点を,①被告人の行為
がAの死亡結果をもたらす危険性のある行為であったか(実行行為該当性),②その危険が現実化した結果,Aが死亡したか(因果関係の有無),③被告人が行為に及んだ際,内心に殺意を抱いていたか(殺意の有無),④被告人の行為が社会的に相当な行為であったといえるか(正当行為該当性)の4点に整理した。⑶

原審裁判所は,合意書面となった書証等のほか,関係する証人の尋問(その
中には,後に詳しく言及する,Aの死因に関する専門家の証人尋問も複数含まれている。),被告人質問を遂げ,原判決を言い渡した。
2
原判決の内容



罪となるべき事実の要旨

原判決が認定した罪となるべき事実の要旨は,被告人は,平成26年7月12日頃,本件居室において,かつて交際しており,当時も被告人方を訪れるなどしていたAが急に被告人の手を口に入れて噛んできたため離そうとしたが,手がAの口か
ら抜けなかったことから,とっさにAを失神させようと考え,Aの背後に回って左腕でAの頸部を絞め始めたが,そのうち,Aが死亡するかもしれないが,それでも構わないという心理状態に至り,そのままAの頸部を絞め続け,よって,その頃,同所において,Aを頸部圧迫による窒息により死亡させた,というものである。⑵

原判決の判断の方法

原判決は,本件の各争点について判断するためには,その前提として被告人の行為がどのようなものであったかを認定する必要があるが,Aの死因自体が争われている本件においては,まずは,法医学及び薬学の専門的知見を踏まえて,客観的証拠からAの死因を検討し,その中で,被告人供述の信用性も検討しつつ,被告人の行為がどのようなものであったかを認定する必要があるとした。
通常,被告人の行為が問題になる以上,被告人がどのような供述をしているかがまず問題とされる(特に相手が死亡している事案では,他方の事件当事者である死亡者から事情を聴くことができない。)が,本件では,検察官と弁護人の間で,被告人の行為や死因について激しく争われたことから,客観的に死因を解明し,その結果を基礎に被告人の行為を認定するという手法を採ったものと思われる。もっとも,被告人の供述の信用性にも大きく関わるから,ここで,原審における被告人の供述内容を確認しておく。


被告人の原審公判供述の内容

本件事件当時の状況に関する被告人の原審公判供述(以下「被告人供述」という。)の概要は,次のとおりである。
本件当日,被告人が,うたた寝をしていたところ,Aが,「こんな表現しかできなくてごめんね。」と言い,被告人の右手を飲み込むように口の中に入れて噛んできた。被告人は,左手でAの口をこじ開けようとするなどして右手を抜こうとしたが,抜けなかった。そこで,とっさに,Aを落とそう(失神させよう)と考え,Aの背後に回り込み,左腕をAの首に巻き付けて絞めた。Aは,すぐには落ちなかったが,30秒から40秒程度経過すると,Aがおとなしくなり右手が抜けたので,
Aが落ちたと思い,力を緩めたところ,Aが再び暴れようとしたため,再度,落とそうとして首を絞めた。すると,5秒程度でAが脱力した。Aを起こそうと思い,頰を叩いたり足を持ち上げてAを揺すったりしたが,Aは起きなかった。その頃,Aの心臓が動いていないことに気付いて人工呼吸と心臓マッサージを行ったが,Aは蘇生しなかった。このように,被告人は,供述する。


Aの死因等についての専門家の供述

この点について,原審において,検察官が請求した,法医学を専門とするB医師,弁護人が請求した,法医学を専門とするC医師及び薬学を専門とするD教授の各証人尋問が行われた。その供述内容を概観しておく。

B医師(その供述内容を,以下「B原審証言」という。)

窒息死の判断に当たっては,顔面や頸部の外部・内部の所見及び内臓所見における窒息死を示すものの有無・程度,薬物検査や内臓の所見から他に死因が考えられないかなどを総合判断して窒息死といえるかを判断する。E医師が解剖した際のAの遺体写真やE医師の鑑定意見等も検討したが,Aは頸部圧迫による窒息により死亡したものと考える。その理由として,以下の所見を指摘できる。①Aの遺体には,顔面の鬱血,肺や腎臓の鬱血,眼瞼結膜の溢血点等の急性死の所見が認められる。②また,左甲状舌骨筋等の頸部深部の筋肉内出血がある,顔面の鬱血が強い,眼瞼結膜の溢血点が多い,心臓死ではみられない舌筋内の出血があることなどは,頸部圧迫による窒息死を強く示唆する所見である。③他方,他の臓器に死因となる所見は認められず,④Aの胸腔内液から検出された薬物の濃度は低いから,薬物中毒死の可能性も排除できる。⑤これらを総合的に判断すると,Aは頸部圧迫により窒息死したと判断できる。

C医師

Aの遺体の所見やE医師の判断を踏まえ,遺体の所見,遺体から採取された血液中の血中酸素分圧といった観点から考察すると,Aは窒息死に至る前に薬物の影響により急性心停止した可能性があり,その死因が窒息でない可能性が残る。

D教授(その供述内容を,以下「D証言」という。)

Aの胸腔内液から,いずれも危険ドラッグと呼ばれる有害な薬物である,幻覚剤「Diphenidine」(以下「ジフェニジン」という。)と,合成カンナビノイドの一種である「5-Fluoro-AB-PINACA」(以下「ピナカ」という。)が検出されている。いずれの薬物についても,Aの胸腔内液から検出された濃度が低くても,Aが相当量を摂取していた可能性は否定できず,その摂取量が致死量又は呼吸困難や不整脈による心筋梗塞をもたらし得る中毒量であった可能性が残り,Aがこれら薬物の影響により死亡した可能性は否定できない。⑸

原判決の専門家証言に対する評価と死因の認定

原判決は,B原審証言は,豊富な解剖経験に基づくものであり,C医師が採用した血中酸素分圧に基づく死因の鑑別は,基礎的文献において採用されている鑑別指標ではなく,C医師自身が,Aの遺体の血中二酸化炭素分圧は窒息死を示唆する旨,酸素分圧に基づく判断と矛盾する見解を述べていることも考慮すれば,血中酸素分圧によっても,B原審証言の信用性を揺るがすものではないとして,その証言の信用性を肯定した。また,D証言は,本件事件当時のAの具体的な状況等を踏まえて,Aの死因に薬物が影響を与えたかを検討するものではなく,Aの遺体には,死因を窒息死とする相当根拠のある所見がそろっており,D教授が指摘するジフェニジン又はピナカによる薬物中毒死の可能性,あるいは,これら薬物の相互作用によってAが死亡した可能性は抽象的なレベルにとどまるとして,B原審証言に依拠し,Aの死因は,被告人がAの首を絞めたことによる窒息死であると認定した。⑹

原判決の被告人の行為と殺意に関する認定

その上で,原判決は,①首を絞める行為は,一般的にみて人を窒息死させる危険性のある行為であり,被告人の行為は殺人の実行行為に当たる。②Aの窒息死は,被告人が首を絞めた行為の危険性が現実化したものであるから,被告人の行為とAの死亡結果との間に因果関係が認められる。③急にAに右手を噛まれ,Aの口から右手が抜けなかったという被告人供述の信用性を排斥することはできず,被告人が,
Aの理解し難い行動に接し,とっさにAを落とそうとして背後に回って腕で首を絞めようとすることが不自然とはいえないから,被告人が,Aの首を左腕で絞め始めた時点では,Aを殺そうと考えていたとはいえないし,失神させようと思っていただけで,Aが死亡する危険性があるとも思っていなかった可能性があり,被告人に殺意があったとは認められない。④しかし,Aの死因は窒息死であり,被告人は,窒息死するほどの時間である,少なくとも2分程度はAの首を絞めるという,Aが死亡する危険性の高い行為を続けていたと認められ,当初は理解し難い行為をしたAを失神させようとしてその首を絞め始めたとしても,そのまま一定の時間が経過した頃には,自分の行為がAを死亡させる危険性の高い行為であることを認識したはずであり,それにもかかわらず,Aの首を絞め続けていたのであるから,その頃には,Aが死亡するかもしれないがそれでも構わないという心理状態,すなわち,未必の殺意があったと認められる。⑤Aが理解し難い行動をとったことを前提としても,被告人がAの首を絞め続けた行為は,社会的に相当といえる範囲を超えているから,被告人の行為は正当行為に該当しない。このように,原判決は,判断し,結論として殺人罪の成立を認めた。
3
事実誤認の論旨

論旨は,⑴

原判決は,B原審証言に依拠して,Aの死因を窒息死と認定したが,
同証言は信用できず,Aの死因は,危険ドラッグの影響による突然死,あるいは,危険ドラッグ使用と被告人がしたバックチョークによって引き起こされた拘束関連突然死である可能性が否定できず,被告人の行為とAの死亡結果との間に因果関係は認められない,⑵

原判決は,被告人がAの首を絞めている間に未必的な殺意を

抱いたと認定したが,被告人はAの異常な行動を制止するため,バックチョークによりAを失神させようとしたにすぎず,殺意は認められないから,前記のとおり認定した原判決には,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある,というのである。
第3

当裁判所の判断

1
原判決の判断構造

原判決は,前述したように,Aの死因が窒息死であることを確定し,そこから演繹的に,事実を認定したといってよい。Aが突然被告人の右手を噛んで,被告人の右手がAの口から抜けなかったという被告人の供述に沿った事実を認定しながらも,首を絞め続けたと認定したのは,窒息している以上,窒息するのに必要な時間(少なくとも2分程度)首を絞め続けているし,殺意も,動機については明らかでないとしつつも,認められるとしたのである。逆にいえば,もし死因が窒息でなかった場合は,殺害行為の認定も,殺意の認定も大きく揺らぐことになる。当裁判所は,本件において,死因の認定がこのような極めて大きな争点であると認識し,記録を調査の上,原判決がAの死因を頸部圧迫による窒息死と認定したことに十分な合理性が認められるかを検討するため,更に,弁護人が請求した,法医学を専門とするF医師の証人尋問と,検察官が請求した,B医師の再度の証人尋問等の事実取調べを行った。以下,その結果をも併せて検討する。
2
Aの死因について



所論は,Aの死因を頸部圧迫による窒息死と認定するには合理的な疑いが残
ると主張し,その論拠として,①Aの顔面に鬱血は認められず,圧迫痕が頸部上方にあることは,Aの頸動脈や気道が十分圧迫されていなかったことを示している,②舌筋の出血は,窒息死の鑑別基準となるものではない,③Aの胸腔内液から検出された薬物の毒性及び濃度に照らすと,薬物中毒死の可能性は否定できない,④薬物の影響に加え,被告人がしたバックチョークによる身体拘束がストレス反応を増強し,Aが突然死した可能性も否定できないことを挙げる。


F医師は,当審において,①Aの遺体の解剖写真を様々な角度から検討した
結果,圧迫部上方の顔面に鬱血はないと判断した,②解剖所見から,圧迫痕が頸部左側の下顎辺りにあり,左右頸動脈や気管を十分圧迫できない場所にあって,圧迫部上方に鬱血を認めないので,頸部圧迫による窒息死は否定される,③Aの胸腔内液中のピナカの濃度に照らすと,ピナカによる薬物中毒死の可能性は否定できず,
覚せい剤の反復使用者には血中濃度が低くても突然死する事例があるので,これら薬物の寄与も否定できない,④薬物の影響に加え,被告人が,Aの異常行動から逃れ,あるいはAを制圧するために腕で拘束した結果,Aが突然死した可能性が高いとの意見を述べた(この供述内容を,以下「F証言」という。)。⑶

これに対し,B医師は,当審において,原審証言と同様,①顔面の鬱血が強
い,眼瞼結膜の溢血点が多数ある,頸部深部に出血がある,舌筋内の出血があることなどを総合すると,Aの死因は頸部圧迫による窒息死と判断できる,②Aの胸腔内液から検出された薬物の濃度に照らすと,薬物がAの死因に寄与したとは評価できないとの意見を述べた。


そこで,F証言を踏まえても,Aの死因が頸部圧迫による窒息死であること
につき合理的な疑いをいれない程度まで立証がなされているかについて,以下,検討する。

顔面の鬱血の有無,圧迫痕について

F医師は,圧迫痕が下顎辺りの左右頸動脈や気管を十分圧迫できない場所にあって,圧迫部上方に鬱血を認めないから,Aの顔面に頸部圧迫による鬱血はないと判断した旨証言する。もっとも,F医師は,Aの遺体に,頸部圧迫の所見である頸部深部の筋肉内出血と,検視の時点で,急性死の所見である眼瞼結膜の溢血点があったことは認めているから,Aの頸部に圧迫が加えられたこと自体を否定する趣旨ではないと解される。
F医師は,その学識,経歴,業績や豊富な解剖実績に照らすと,B医師と同様,法医学に関する専門的知見を述べる証人として十分な資質を備えている。また,F医師は,鬱血の機序,Aの遺体の解剖写真及びE医師作成の鑑定書の内容等を前提に,Aの遺体の頰全般は白っぽく,頰の濃い変色は限局性であること,頸部の圧痕上下の色調に差がなく,圧迫痕の上下・周辺を比較すると色調差がないことを指摘するほか,側頭筋の鬱血は少なく,頭蓋底の静脈は白く,それほど鬱血していないこと,下口唇粘膜に出血と思われる変色があるが,上口唇粘膜は蒼白であることな
ども指摘し,解剖所見上の圧迫部,圧迫痕の部位が下顎,あるいは上頸部であることから,Aの頸動脈と気管は十分に圧迫されてはいなかったとの意見を述べた。数々の所見に着眼し,専門家としての合理的な推論によって結論を導いていると評価することができる。また,F医師が指摘するとおり,Aの遺体を検案し,解剖したE医師は,鑑定書抄本の外部所見の項で,顔面に鬱血があるとは記載しておらず,窒息死が疑われる本件において,同医師が,Aの遺体の顔面に鬱血を認めていながら,そのことを鑑定書に記載しなかったということは考え難いから,同医師は,解剖時において,Aの顔面に顕著な鬱血があるとは判断していなかったことがうかがわれる。当裁判所も,Aの遺体の写真から,顔面に顕著な鬱血を認めることはできなかった。
そうすると,Aの遺体の頸部より上の顔面の鬱血が顕著であったとは認め難く,頸部圧迫の部位が下顎辺りや上頸部辺りであることに照らすと,頸部圧迫の強さ及び持続時間はそれほど強くなかったのではないかとの合理的な疑いが生じる。これに対し,検察官は,F証言について,①Aの死亡後,遺体が発見されるまでの5日間,遺体の顔の下半分から足先まで厚い布団が掛けられており,顔の上半分とそれより下の部分との腐敗状況が異なることや,②死後5日目の検視時において,眼瞼結膜に溢血点が認められたことを考慮しておらず,信用できないと主張する。検察官の主張は,これを善解して検討しても,いずれも失当である。まず,腐敗の点について説明する。検察官の主張によれば,Aの遺体は,本件居室において,室温を16度に設定したエアコンを常時つけた状態で,顔の下半分より下に布団を掛けられ,5日間,放置されていたというのであり,真夏の暑い室内でエアコンをつけないまま長時間放置されていたわけではない。現に,E医師の鑑定書抄本の記載や解剖時のAの遺体の状況等に照らすと,頸部を含む顔の下半分より下の部分の鬱血の有無・程度が判別できないほど,腐敗が進行していたとは認め難い。したがって,腐敗の影響をいう所論は,既にほとんど失当である。また,F医師は,頸部の圧迫痕の上下・周辺で色調差がないという顔面や体表面の,眼で見て分かる所見
だけに頼っているのではなく,頭部の側頭筋の鬱血は少なく,頭蓋底の静脈は白く,それほど鬱血していないことなども総合して,圧迫部上方の顔面の鬱血はないと判断しているのであるから,その判断の信用性は高いといえる。眼瞼結膜の溢血点についても,F医師は,窒息ではない急死の事例でも眼瞼結膜に溢血点が認められることや,本件では,死後6日目の解剖時において,溢血点が消失していたことから,その程度は強くはなく,急死の所見と矛盾しないと判断している。F医師のこの点の意見も合理的であり,信用に値する。
したがって,検察官の指摘する点は,F証言の信用性を揺るがすものとはいえない。このほか,検察官は,Aの頸部に吉川線(首を絞められた者が,息ができなくなって苦しい時に自分の喉をかきむしることによってできる傷)があることを指摘し,Aは,ある程度の時間,強い力で気道を圧迫され,呼吸ができずに苦しくて喉をかきむしったことが推測されると主張する。しかし,この点についても,F医師は,Aの頸部に2本の吉川線のような傷があり,そのことから,首に掛けられた腕を振りほどこうとしたという限度では認めるものの,窒息しかかって苦しいので振りほどこうとしたのか,単に腕を首に掛けられてそこから逃れようとしたのかは,所見からは判断できない旨証言している。加えて,後述するように,Aは,本件当時,薬物の影響により錯乱状態ともいえる状況にあったと考えられ,このようなAの状態を考慮すると,暴れる一環として,気道の圧迫がなくても,被告人の腕を振りほどこうとして,首をひっかき,その結果,吉川線のような傷ができたとしても不自然ではない。そのような傷が認められるからといって,そのことから直ちに気道の圧迫があったと断定することはできず,この点の検察官の主張も採用できない。イ
舌筋の出血について

B医師は,原審において,舌筋に出血が見られたのは,9割以上が頸部圧迫による窒息死であり,残りの一部は焼身自殺の場合にたまに見られる,一方で,経験上,心臓死や薬物中毒死の場合に,舌筋に出血が認められたケースはない旨証言する。そして,原判決は,舌筋出血に関するB原審証言は,豊富な解剖経験に基づくものであって,文献にいまだ記載がないから信用できないというものではないとして,その証言の信用性を肯定する。
しかし,F医師は,法医学の教科書には,舌筋の出血が頸部圧迫の根拠であると書いたものはなく,絞頸事例の中で舌筋に広範な出血がある例が示されている法医学の教科書もあるが,その教科書には,「広範な出血を認めることがある。頭部顔面の鬱血による。」などと書かれており,これは,頸静脈圧迫に伴う舌筋全般の鬱血から出血していると考えられる,Aの舌筋の中に2つの出血があるが,これは,手をくわえたことと下顎歯牙の間の圧迫による限局性の出血ではないかと考えられると証言する。そして,C医師も,原審において,舌筋の出血は,窒息死と心臓死との鑑別指標とはされていない旨証言している。
これらを総合すると,まず,舌筋の出血が頸部圧迫の根拠であるとするB医師の見解は,法医学上一般的に承認されているものとは認め難い。その上,F医師が指摘するとおり,Aの舌筋全体が出血しているとは認められないから,なおさら,頸部圧迫の根拠であるとすることはできない。そして,被告人の右手の甲に噛み傷と見て矛盾しない傷跡があることなどに照らすと,Aが被告人の右手を噛んだことによりAの舌筋に限局性の出血が生じた可能性が認められるから,この舌筋の出血が存在することが不自然とはいえない。
これに対し,検察官は,いくつかの理由を挙げて,Aが被告人の指を飲み込んだという被告人供述は信用できず,このことを前提とするF証言も信用できないと主張する。
しかし,検察官の主張は的外れである。F証言は,Aの舌筋の出血は,舌筋全般の鬱血によるものではなく,限局性の出血であることから,頸静脈を閉塞するほどの力が頸部に加えられたことを否定する趣旨である。決して,被告人の供述を前提として,そこから舌筋の出血が限局性であると推論しているわけではない。したがって,被告人供述の信用性をここで弾劾しても意味はない。そして,Aの舌筋の出血が限局性であることも,証拠上明らかである。

小括

以上からすると,Aの遺体に,顔面の鬱血,舌筋の出血及び眼瞼結膜の溢血点といった各所見が認められたからといって,それが,直ちにAの死因が窒息だったことを示すものとはいえず,その点では,B原審証言は信用できない。そして,B原審証言以外に,Aの死因が窒息であるとする証拠はないから,Aの死因は窒息であるという原判決の認定には,既に合理的な疑いが生じている。そして,原判決は,前述したとおり,Aの死因が窒息であることを前提に,全体的な事実認定をしているから,原判示の事実認定全体が,大きく揺らいでいることになる。当裁判所は,続いて,Aの死因が窒息とはいえないとして,他の死因がある程度特定できるのかを検討した。他の死因が特定できれば,窒息でなかったことが一層明らかになるし,また,そこから,死亡直前のAの状況もある程度推認でき,被告人が述べる本件当時のAの状況と比較して,被告人供述の信用性判断にも資する可能性があるからである。


薬物中毒死の可能性について

原判決が,「争点に対する判断」の項第2の3で前提事実として認定したとおり,Aの手提げバッグ内から,アルミホイルに包まれた,ピナカ,ジフェニジン及び合成カンナビノイド「5F-AMB」を含有する葉片が発見されていることなどからすると,Aは,生前,危険ドラッグを吸引使用していたことがうかがわれる。また,Aの遺体から平成26年7月18日に採取された胸腔内液を,平成28年3月31日までに鑑定した結果,同胸腔内液から,フエニルメチルアミノプロパン(覚せい剤)8.9ng/ml,フエニルアミノプロパン(覚せい剤の代謝物)3.3ng/ml,ピナカ0.74ng/ml,ジフェニジン1.1ng/mlが検出されており,Aは,死亡前,これらの薬物が体内から検出される残留期間内に,覚せい剤や,ピナカ及びジフェニジンを含む危険ドラッグを使用したと考えられる。
このことを踏まえ,D教授は,①ジフェニジンの人体内における半減期が明らかでなく,血中酵素による分解の程度も明らかでないものの,生体内で分解することは明らかである,②ピナカ等の合成カンナビノイドは,その性質・構造から代謝されやすく,また,脂溶性の物質であって,体内に取り込まれると急速に脂肪に吸収されるから,事後に血中から検出されることはほとんどない,③そのため,いずれの薬物についても,Aの胸腔内液から検出された濃度が低くても,Aが相当量を摂取していた可能性が否定できず,Aの胸腔内液から検出された薬物の濃度からすると,その摂取量が致死量又は呼吸困難や不整脈による心筋梗塞をもたらし得る中毒量であった可能性が残り,Aがこれら薬物の影響により死亡した可能性は否定できないと証言する。
原判決も指摘するとおり,D教授は,薬学の分野に関しては,その学識,経歴,業績に照らし,専門的知見を述べる証人として十分な資質を備えており,その証言は,薬物の特性を具体的,説得的に説明する内容であり,文献にも裏付けられた内容となっている。他方,B医師は,Aの胸腔内液から検出された薬物がAの死因に影響しないことについて,検出時の薬物の濃度が低いことを根拠として挙げるだけであり,D教授が説明するジフェニジン及び合成カンナビノイドの性質を踏まえたものとなっていない。
ところが,原判決は,薬物中毒死の可能性がないというB原審証言は直ちに信用できないとしながらも,D証言で示唆される,薬物中毒死の可能性を,本件死因として具体的可能性のあるものと判断せず,結局,死因が窒息であると認定することについて合理的な疑いがあるとは評価しなかった。原判決の理由とするところは,①D証言を踏まえても,薬物中毒死の可能性を排除する部分以外のB原審証言の信用性は揺るがず,Aの遺体には,死因を窒息死とするのに相当根拠のある所見がそろっており,B医師の述べる窒息死の所見から,薬物中毒死の可能性はほとんど排斥されている,②D証言は,ジフェニジンやピナカがAの胸腔内液から検出されたことから,それら薬物の性質等を考慮すれば,Aが薬物の影響によって死亡した可能性があると述べるにとどまり,本件当時のAの具体的な状況等を踏まえて,Aの死因に薬物が影響を与えたかを検討するものではなく,本件当時のAの具体的状況等を考慮すると,死因が薬物死でないと合理的な疑いなくいえるというのである。しかし,既にみたとおり,本件死因が窒息であるとするには,合理的疑いが生じている。窒息の可能性が高いから,薬物中毒の可能性は排斥されるなどとは到底いえない状況にある。また,原判決は,死因が窒息であるとするB原審証言に高い信用性を認めたためと思われるが,D証言を正しく理解しているとは認め難く,D証言を正しく理解し,これにF証言等を併せて検討すれば,Aがピナカ等の薬物の影響により死亡した具体的可能性は否定できないというべきである。以下,その理由を示す。
まず,合成カンナビノイドは脂溶性の物質であり,ジフェニジンと比べても代謝されやすく,生体内で急速に分解されること,流通している危険ドラッグの薬物濃度は,粗製乱造のため,むら(ダマ)があって,致死量に匹敵する量の成分が含まれていることもあるという流通の実態などの,D証言の内容を踏まえれば,Aの胸腔内液から検出されたピナカの量が低いからといって,そのことから直ちに,Aが事件前に吸引したピナカの量が致死量であった可能性,あるいは,中毒症状自体から死に至る程度の量であった可能性を排除することはできない。
これに対し,原判決は,①D教授が指摘する合成カンナビノイドによる死亡例は,「5-Fluoro-ADB」(以下「ADB」という。)を摂取したことによるものが大半であり,ピナカの摂取によるものではない,②その死亡原因も,誤嚥による窒息死や薬物の影響による飛び降り等の異常行動によるものが多く,薬物による心臓死の事例が具体的に示されているわけではない,③ピナカについての致死的な中毒量や,摂取後の減少割合も,具体的には示されていない,④そうすると,D証言から直ちにAがピナカの影響により薬物中毒死した具体的可能性があると疑われるものではないなどと説示する。
しかし,D証言によれば,ADBとピナカは,非常に似た薬効を有する類縁体であり,当審で取り調べたD教授の論文によれば,ピナカの方が,ADBよりも,人間のCB1受容体に作用する物質として強力であるとの知見が示されている。また,D教授は,原審において,危険ドラッグ吸引後に死亡し,体内の残存薬物が検査された2つの事例を紹介しているが,そのうち,死後35ないし40時間の剖検例では,ADBが,脂肪組織から7.95±0.026ng/mg検出されたのに,血液中からは検出されていない(0.1ng/mlの検出限界未満)。死後3.5日の剖検例では,脂肪組織から,合成カンナビノイド「AB-CHMINACA」(以下「ABケミナカ」という。)が24.8±2.48ng/mg,ADBが18.7±1.10ng/mg及び高濃度のジフェニジンが検出されたが,血液中からは,ジフェニジンは検出されたものの,ABケミナカ及びADBは,いずれも検出されていない(1ng/mgの検出限界未満)。前者は,薬物使用により嘔吐し,吐瀉物が気管に詰まって窒息死したと考えられ,後者は,ジフェニジンの濃度が極めて高く,ジフェニジンによる中毒死であることがうかがわれるが,いずれも合成カンナビノイドを摂取したことが確実であるのに,血液中からはその成分は検出されていないというのである。このことに加え,Aの遺体から採取された胸腔内液は,死後に血液から胸腔に漏出した血液の液体成分(血漿)が主であると考えられ,危険ドラッグの濃度は血中濃度に等しいと考えられること,合成カンナビノイドは,構造の中にアミド又はエステル結合を有しており,人間の体内には,その結合を切る酵素があるので,非常に壊れやすく,極めて短時間で壊れて消失する性質があり,死後も血液中の酵素により分解が進むことなどを考慮すると,D教授が指摘するとおり,Aの死後,約6日後に採取された胸腔内液にピナカ0.74ng/mlが検出されたことは,数値として逆算はできないものの,Aが死亡前に相当多量のピナカを摂取したことを推認させるものである。
さらに,F医師は,法医学の見地から,危険ドラッグ使用後に死亡した2つの事例を紹介し,いずれも,ピナカ摂取後,短時間内に,血中,肺内にピナカを検出できなくなっていることに言及し,ピナカは,代謝が早く,脂肪に溶けると血中に漏れ難いので,血液や脂肪以外の臓器には検出されない非常に特殊な薬物であり,これを多量摂取しても,脂肪含有の少ない肺には少量しかそもそも移行しないし,移行したとしても,肺内にある脂肪に溶け込んで,胸腔液にはそもそも溶け出してこないと考えられる,多数の人がピナカを摂取後急死しているのに,文献上,ピナカが血液から検出されたという報告はなく,これは,迅速な代謝,組織移行,脂溶性のためと考えられる,そのようなピナカを,Aの胸腔内液中に0.74ng/ml検出したことは,漏れ出てきた源である肺,あるいは主要な標的である脳にピナカが中毒量含まれていることを強く支持する所見である旨,D教授の見解と整合する証言をしている。このF証言を踏まえると,Aが死亡前に相当多量のピナカを摂取したことがより強く疑われる。そして,合成カンナビノイドが人体に与える影響としては,頻脈を惹起し,不整脈を生じ,急性心不全を起こすなどの副作用を有しており,覚せい剤もジフェニジンも心拍数を高める効果があり,これらが相乗的,あるいは相加的に作用することによって有害事象も強まり,死に至る危険性も増してくることを考え併せると,ピナカ等の薬物の影響によりAが急死した可能性は,抽象的とはいえず,具体的にあるというべきである。
これに対し,原判決は,①Aにみられた中毒症状は,被告人供述によれば,錯乱して被告人の右手を口の中に入れて噛んだこと,普段と違う表情だったことからして瞳孔散大の症状があったことがうかがわれることぐらいであり,ろれつが回らない,明らかな嘔吐をする,カタレプシーを起こす,奇声を上げるなどの急性症状はみられず,不整脈や呼吸困難で苦しむ様子があったことはうかがわれない点,②Aが首を絞められてもなお抵抗していたことなどからすると,意識や運動機能に障害が生じていた様子もなかった点,③Aは「こんな表現しかできなくてごめんね。」と言って被告人の右手を口に入れて噛んでおり,ある程度意味のある言葉を発しているし,一応発言内容と対応する行動をしている点を指摘し,このようなAの状況はピナカの薬効によるものとして説明が付くものの,その中毒症状自体から,Aの摂取量が,死に至る程度の量であった疑いはないと説示する。
しかし,D教授は,ジフェニジン及び合成カンナビノイドを摂取した人が相手に対して,「ごめんね。」などと言いながら攻撃行動をとる可能性は十分にあり得る,薬効は個人の体質によるところが大きいなどと証言しているから,原判決の指摘する点は,必ずしも薬物中毒死の可能性を排斥するものとまではみることができない。また,本件事件当時の状況に照らすと,被告人がAの身体症状の異変を正確に観察していたかは疑問の余地がある。そうすると,Aは,ピナカ等の薬物の過剰摂取により異常行動に出るとともに,その摂取量が中毒死を生じさせる致死量であったため,異常行動の途中で薬物中毒死した可能性は相応にあると考えられるから,この点の原判決の判断は是認できない。


拘束関連突然死の可能性について

F医師は,ストレスが人に加わると,視床下部,下垂体,副腎辺りを過剰に刺激し,交感神経を刺激し,アドレナリンが血中に大量放出され,心臓のアドレナリン受容体を刺激する,生理的には,心筋に働くと心拍数,収縮力が増強し,血管に働くと収縮して血圧が上昇する,これらの刺激が過剰な状態で致死性の不整脈を起こし,あるいは心不全を起こすことが知られている,ストレス経路だけでなく,心疾患,遺伝子変異,慢性の抗精神病薬や覚せい剤の使用の背景のある人には,もともとそういうことが生じている,Aは,身体拘束を受けているので,心理ストレスが強く作用し,心筋の過収縮,あるいは過剰刺激による不整脈,心不全が惹起されるという心臓突然死が一番起こりやすい条件にあった,カンナビノイド系の薬物や覚せい剤の影響により異常行動をとることによって身体拘束を余儀なくされることによるストレスと,特に,覚せい剤はこのストレス反応を増強することが知られている,そのような背景の下で,Aが身体拘束を受けて突然死した可能性のあることを証言している。前述したとおり,Aは,死亡前に,覚せい剤を使用するとともに,相当多量のピナカを摂取した可能性が否定できず,そのため,被告人の右手を噛むという異常行動に出たのに対し,被告人が左腕をAの首に回し絞め付けていることからすると,このことがAのストレス反応を引き起こし,ピナカや覚せい剤等の薬物の影響とあいまって,F医師の指摘する突然死を引き起こした具体的可能性は否定できないというべきである。
これに対し,検察官は,F医師が指摘した突然死の事例は,死亡者にもともと心臓疾患等があった場合であり,Aには,そのような疾患はなかったから,突然死の可能性は否定されると主張する。しかし,F証言によれば,心疾患は,遺伝子変異,慢性の抗精神病薬や覚せい剤の使用と並ぶ背景要因の一つにすぎないと考えられるのであり,心臓の疾患がなくても,Aが,覚せい剤使用を背景に,ピナカ及びジフェニジンを含有する危険ドラッグを使用し,その薬理作用が及んでいる中で,被告人によって身体を拘束され,ストレス反応が増強されるという機序により突然死した可能性も否定できない。したがって,検察官の主張は採用できない。⑺

まとめ

以上からすると,Aの死因を頸部圧迫による窒息死と認定するには合理的な疑いが残ることは前述のとおりであるが,Aの死因としては現実的に考えられるのは,Aがピナカ等の薬物を一度に多量に摂取したことによる薬物中毒死,あるいは,ピナカ及び覚せい剤等の薬物摂取と,被告人がAの異常行動を制止するためにしたバックチョークによるストレス反応の増強による突然死である。これらは,Aの摂取した薬物の量などからみても,具体的可能性のあるものと考えるべきである。3
被告人の行為とこれに対する評価



本件時,被告人が,Aの首に腕を巻き付けたことは,被告人自身が認めると
ころであり,客観的な痕跡によっても裏付けられている。これまで検討してきた死因についての結論等も踏まえて,この被告人の行為が,具体的にどのようなもので,刑法上どのような評価を受けるのか,本件公訴事実の範囲内で犯罪が成立するか等について検討する。


被告人のこの点に関する供述は先に示したとおりである。原判決も,被告人
のこの点に関する供述の一部の信用性は排斥できないとして,「Aが急に被告人の手を口に入れて噛んできたため離そうとしたが,手がAの口から抜けなかった」と,Aが被告人の手を口に入れて噛んできたという限度では,被告人供述に沿った認定をしている。
これに対し,検察官は,①女性であるAの口の中に,男性である被告人の人差し指,中指,薬指の3本を,手の甲に奥歯の歯形が残るほど奥まで挿入することは困難である,②無理やり喉の奥まで指を挿入すれば,Aに嘔吐反応が生じるはずである,③人差し指,中指,薬指を喉の奥まで挿入した場合,指で咽頭蓋を押さえてしまい,気道を閉塞するため,Aは呼吸ができなくなる,④Aが,被告人の右手の甲に歯形を残すほど強く噛んだのであれば,被告人の右手の平にも傷が生じるはずであるが,そのような傷は存在しない点を指摘し,Aが被告人の指を飲み込んだという被告人供述は信用できないと主張している。
しかし,原判決が指摘するとおり,被告人が逮捕された平成26年7月17日に撮影された写真によれば,被告人の右手甲の示指(人差し指)付近には長さ数センチメートルの傷が認められ,法医学を専門とするG医師は,この傷は,咬傷で成傷可能であり,本件事件頃に負傷したと考えて矛盾はない旨鑑定していること,示指(人差し指)下から続く長い傷跡の周辺も赤みがかっており,全体としてみれば,奥歯により付いた痕と見ても矛盾がないこと,薬物の影響により錯乱した可能性のあるAが被告人の手を飲み込むという異常な行動に出ることは起こり得ると考えられるし,薬物の影響等により嘔吐反応が起こらなかった可能性もあることなどを考え併せると,Aに右手を飲み込まれるようにして噛まれたという被告人供述の信用性は,やはり排斥することができない。


以上により,被告人供述の信用性は排斥できず,加えて,Aの死因は,窒息
であるとは断定できず,薬物中毒等の疑いがあることを勘案すると,被告人の行為は,客観的に殺人罪の実行行為と認めることはできない。すなわち,被告人供述によれば,被告人は,バックチョークによりAを失神させて異常行動をやめさせようと考え,左腕をAの首に回して絞め付けたというのであり,頸部圧迫の程度もそれほど強くなかったとの疑いがあるから,客観的にみて,そのような被告人の行為が殺人の実行行為に当たるとはいい難い。
この点,原判決は,被告人が,Aを落とそう(失神させよう)と考え,左腕をAの首に巻き付けて30秒ないし40秒程度絞め付け,力を緩めたところ,再びAが暴れようとしたため,更に5秒程度首を絞めたところ,Aが脱力したという被告人供述は,Aの死因に照らして不合理であり,信用できないとし,Aの死因が窒息死であることを前提に,被告人の行為が殺人の実行行為に当たり,被告人が少なくとも2分程度,Aの頸部を絞め続けたことを推認し,更には,未必的殺意もあったと認定した。
しかし,Aの死因を頸部圧迫による窒息死と認定するには合理的な疑いが残るから,被告人がAの頸部付近を2分程度,絞め続けたと認定することはできない。Aが薬物等の影響により死亡したとすれば,Aが薬物中毒のために急に異常な行動に出て,その後薬物中毒そのものにより,あるいは,拘束関連死として,突然死亡したことも十分に考え得るから,被告人の供述するAの死亡経過とむしろ整合するものと評価できる。Aが異常な行動をとってから死亡に至るまでについての被告人供述は,その信用性を否定することはできない。また,原判決が,被告人がAの首を絞めたのは,Aが被告人の右手を口に入れて噛んできたため,Aを失神させようとしたものと考えられ,行為の当初は殺意があったとは認められないとしながら,その後,特段の事由もなく,行為の途中で被告人が未必的殺意を抱いたと認定したのは,経験則に照らして不自然,不合理であるといわざるを得ない。すなわち,Aは,被告人の交際相手であり,両者の関係は,本件当日も良好であったとみられるから,被告人が行為の当初に殺意を抱いていなかったという認定は自然であるのに対し,途中から殺意を抱くようになったとするのは,不自然である。Aに手を噛まれ続けているうちに激高したのだとしても,それだけで,交際相手のAに対して,未必的にしても殺意まで抱いたと認定するのは,経験則上,不自然であり,不合理といっても差し支えない。これは,Aの死因を窒息と認定したことに起因する誤りであり,原判決の判断は是認できず,被告人に殺意があったと認定することもできない。なお,念のため,検察官の主張についても触れておく。検察官は,被告人がしたのはバックチョークではなく,左腕でAの気道を含む頸部を圧迫するものであり,被告人も,そのことを認識していたとして,殺意があったと主張するが,前述したとおり,左腕のみでAの首を絞めたという被告人供述は,Aの遺体の所見と整合しており,被告人がAの気道を圧迫したと認定するには合理的な疑いが残るから,そもそも検察官の主張は採用できない。


被告人の行為が,前述のとおりであるとして,これが,公訴事実の範囲内で,
何らかの犯罪に該当しないかを検討する。被告人の行為は,前述のとおり,殺人の実行行為とはいえないとしても,Aに対する有形力の行使であることは間違いないから,暴行罪や傷害罪が成立する可能性はある。
前述したとおり,この点に関する被告人供述の信用性を排斥することはできないから,以下,被告人の供述する本件事件当時の状況を前提に,正当化事由の有無について検討する。
バックチョークは,ブラジリアン柔術の技の中でも最も基本的で,相手を傷付けない安全な技であるとされており,バックチョークそれ自体は,相手を死亡させる危険性の高い行為とまではいえない。そして,過去に格闘技道場でブラジリアン柔術を習ったことのある被告人が,突然Aに右手を噛まれ,Aの口から右手を離そうとしたが抜けなかったため,バックチョークによりAを失神させようと考え,左腕のみでAの頸部を絞め付けたことは,Aによって自分の右手を噛まれているという急迫不正の侵害に対し,自己の身体を防衛するため,やむを得ず実行に及んだものと認められる。また,被告人が,Aの口から右手が抜けた後,更に左腕でAの頸部を絞め付けたことも,Aに,なおも暴れるような素振りがあったことや,絞め付けた時間が5秒程度という極めて短い時間であったことなどからすると,Aによる急迫不正の侵害に対し,その前の行為と時間的・場所的に極めて接着してなされた一連一体の行為であると評価するべきであり,全体として正当防衛が成立すると認められる(被告人とAとの関係を考慮すると,一度Aの異常な行動がやんだ後に,被告人がAに積極的に加害の意思をもって暴力を振るうとも考え難い。)。したがって,被告人には,殺人罪はもとより,暴行罪や傷害罪も成立しないというべきである。
4
結論

以上の次第であり,原判決が,Aの死因を頸部圧迫による窒息死と認め,そのことを前提に,殺人の実行行為性,被告人の行為とAの死亡との因果関係,被告人の殺意を認定したことは,論理則,経験則に照らして不合理であり,また,被告人に正当防衛の成立を認めなかったことについても誤認がある。事実誤認の論旨は理由があり,その余の論旨について判断するまでもなく,原判決は破棄を免れない。第4

破棄自判

そこで,刑訴法397条1項,382条により原判決を破棄した上,同法400条ただし書により,被告事件について,更に次のとおり判決する。本件公訴事実の要旨は,前記第1のとおりであるが,前記第3のとおり,同事実については犯罪の証明がないから,刑訴法336条後段により被告人に対し無罪の言渡しをすることとし,主文のとおり判決する。
平成30年10月31日
大阪高等裁判所第6刑事部

裁判長裁判官

村山浩昭
裁判官

田中健司
裁判官

畑口泰

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