判例検索β > 平成30年(わ)第616号
危険運転致傷(予備的訴因 過失運転致傷)
事件番号平成30(わ)616
事件名危険運転致傷(予備的訴因 過失運転致傷)
裁判年月日令和元年5月22日
法廷名大阪地方裁判所
裁判日:西暦2019-05-22
情報公開日2019-06-27 14:00:12
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主文
被告人を禁錮1年6月に処する
この裁判が確定した日から3年間その刑の執行を猶予する。
当審における訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は,かねてから1型糖尿病に罹患し,医師の指示に基づき,毎食前等に簡易血糖測定器で血糖値を測定し,インスリン注射により血糖値を下げる治療を行っており,治療のために注射したインスリンの血糖降下作用等により,低血糖症による意識障害に陥った経験を有していたものであるが,平成26年6月30日午後2時36分頃,普通乗用自動車を運転し,大阪市a区bc丁目d番e号fコインパーキングから発進するに当たり,同日午後1時39分頃から前記発進までの間にインスリンを注射しており,体温上昇を感じるという低血糖症の前駆症状もあったから,携帯していた簡易血糖測定器で自己の血糖値を測定するなどして,自己が低血糖の状態にないことを確認しない限り,運転を差し控えるべき自動車運転上の注意義務があるのにこれを怠り,同測定器で自己の血糖値を測定せず,自己が低血糖の状態にないことを確認しないまま漫然運転を開始した過失により,同日午後3時59分頃,同市g区hi丁目j番k号先の信号機により交通整理の行われているl交差点付近道路において,低血糖症による著しい意識低下の状態で,自車を時速約14キロメートルで右折西進させ,折から右方道路で信号待ちのために停車していたA(当時46歳)運転の普通乗用自動車前部に自車左前部を衝突させ,さらに,自車を南方に左折後進させた上,東方に向かい発進加速して時速約48キロメートルで暴走させ,これから逃れるべく同交差点東詰の横断歩道上を自転車を押しながら南方に走っていたB(当時32歳)に自車前部を衝突させて同人を路上に転倒させた後,自車前部を,同横断歩道東方の道路南側に駐車中の普通貨物自動車後部に衝突させて押し出し,同車前部を,同車前に立っていたC(当時58歳)に衝突させて同人を路上に転倒させ,よって,前記Aに加療約23日間を要する頸椎捻挫の傷害を,前記Bに加療約3か月間を要する右肋骨多発骨折等の傷害を,前記Cに加療約10日間を要する左肩挫創等の傷害を,それぞれ負わせたものである。(争点に対する判断)
第1

基本的事実関係及び本件の審理の経過

1
基本的事実関係

関係証拠によって認められる本件の基本的事実関係,特に事故当日の事実経過は,以下のとおりであり,当事者間でも概ね争いがない。


被告人の糖尿病等

被告人は,かねてから,血糖値を下げる働きをするインスリンの分泌が枯渇する1型糖尿病にり患し,インスリン注射により血糖値を下げる治療を続けていた。


被告人は,平成26年6月30日(以下本件当日という。また,

同日の出来事については,日付の記載を省略することがある。)午前6時15分頃に血糖値を測定したところ,測定値は83㎎/㎗(血液1デシリットル当たりの血糖値のミリグラム数)であった。そして,即効型インスリンであるノボラピッド(以下追加インスリンともいう。)及び持効型インスリンであるトレシーバの注射を行った後,朝食をとって勤務先に出勤した。


被告人は,午前11時頃に普通乗用自動車(以下本件自動車とい

う。)を運転して勤務先を出発し,取引先に商品を配達した後,午後1時44分頃に勤務先に戻ったが,その間である午後1時39分頃,携帯していた簡易血糖測定器で血糖値を測定した。そのときの測定値は224㎎/㎗であった。なお,この後,後記の本件事故に至るまで血糖値を測定していない。また,この日は昼食をとっていない。


被告人は,午後1時52分頃,再び本件自動車を運転して勤務先を出発し,午後2時20分頃,判示fコインパーキングに本件自動車を駐車して取引先に商品を配達した。そして,午後2時36分頃,同所から本件自動車を運転して発進した(以下本件発進という。)。


被告人は,その後同車の走行中に著しい意識低下の状態に陥り,午後
3時59分頃,判示のl交差点付近道路において,低血糖症による著しい意識低下の状態で,判示のとおり,本件自動車を暴走させて歩行者に衝突させるなどし,被害者3名に傷害を負わせる交通事故を起こした(以下本件事故という。)。


被告人は,午後4時45分頃に病院に搬入され,その後,医師が被告
人の血糖値を測定したところ,32㎎/㎗であった。その後,ブドウ糖の投与により意識が回復した。
2
差戻前第1審


主位的訴因及び予備的訴因の概要

被告人は,本件事故について,危険運転致傷罪により起訴された。その訴因の概要は,被告人は,平成26年6月30日午後2時36分頃,普通乗用自動車を運転し,大阪市a区内所在のfコインパーキングから発進し,同日午後3時44分頃,同市g区m町内の道路に至るまでの間,低血糖症の影響により,その走行中に自動車の安全な運転に必要な認知,予測,判断及び操作の能力を欠くこととなるおそれのある状態で自動車を運転し,もって,自動車の運転に支障を及ぼすおそれのある病気の影響により,その走行中に正常な運転に支障が生じるおそれがある状態で自動車を運転し,よって,その頃,同所付近道路において,低血糖症による著しい意識低下の状態に陥り,同日午後3時59分頃,本件事故を発生させた。というものである(以下主位的訴因という。)。本件は公判前整理手続に付され,過失運転致傷の予備的訴因が追加され,公判段階で一部訴因変更された。変更後の予備的訴因の概要は,被告人は,本件当日午後2時36分頃,普通乗用自動車を運転し,大阪市a区内所在のfコインパーキングから発進し,同日午後3時44分頃,同市g区m町内の道路に至るまでの間,自車を発進,走行させるに当たり,かねてより,糖尿病治療のためインスリンを常用して血糖値を調節していたものの,前兆なく低血糖症による意識障害に陥ったことがあった上,数時間で血糖値が大きく降下し,意識レベルの低下等の症状が出始める医学上の目安である血液1デシリットル当たり50ミリグラム以下の低血糖になったこともあり,さらに,当日は,常日頃の摂取時間帯に昼食及びインスリンを摂取していないため,血糖値が不安定になるおそれがあったのであるから,自車を発進,走行させるのであれば,低血糖症による意識障害に陥る可能性を予見し,適宜,血糖値を測定し,自己の血糖値を正確に把握し,血糖値が安定するのを確認するなどの措置を講じて発進,走行すべき自動車運転上の注意義務があるのにこれを怠り,同日午後1時39分頃に測定した血糖値が血液1デシリットル当たり224ミリグラムであったことや,発進直前に菓子,ジュースを飲食したことのみから,にわかに低血糖症になることはないと軽信し,血糖値を測定せず,これが安定していることを十分に確認しないまま自車を発進,走行させた過失により,同日午後3時44分頃,同区m町内の道路において,低血糖症による著しい意識低下の状態に陥り,同日午後3時59分頃,本件事故を発生させた。というものである。⑵

差戻前第1審判決の要旨

差戻前第1審判決の要旨は,以下のとおりである。

主位的訴因について

本件当日午後2時36分頃から午後3時44分頃まで運転を継続している間において,自身が走行中に低血糖症による意識低下状態に陥り,正常な運転に支障が生じるおそれがあることの認識を認めることはできないから,故意が認められず,主位的訴因は認められない。

予備的訴因について

被告人が血糖値が不安定なタイプの1型糖尿病であって,本件事故当時,無自覚性低血糖症を発症していること(少なくともこれを基礎付ける事実)を認識していたことや,本件事故の前には,被告人の血糖値が不安定で,頻繁に低血糖状態になるほか,血糖値が数時間のうちに100㎎/㎗を超えて大幅に降下することも経験していたことなどからすれば,運転中に低血糖症により意識障害に陥る可能性についての予見可能性が認められる。そして,被告人は,午後2時36分頃の運転再開前,あるいはその後の運転中に,適宜,血糖値を測定し,自己の血糖値を正確に把握し,血糖値が安定するのを確認するなどの措置を講じて発進,走行すべき結果回避義務があったのに,それを怠った。そうすると,変更後の公訴事実と概ね同旨の罪となるべき事実が認められ,過失運転致傷罪が成立する。
3
差戻前控訴審

これに対し,弁護人は控訴を申し立てたが,検察官は控訴を申し立てなかった。
控訴審判決は,事実誤認を理由に差戻前第1審判決を破棄し,本件を大阪地方裁判所に差し戻した。控訴審判決の要旨は,次のとおりである。⑴

破棄の理由

差戻前第1審判決が前提とした事実のうち,前兆なく低血糖による意識障害に陥った事実は認められず,また,数時間で血糖値が大きく降下したりした事実については,インスリン注射以外の原因によって血糖値が大きく降下したと認めるのは困難であるから,いずれも上記予見可能性を認める前提とすることはできない。
そして,本件当日午後1時39分頃の被告人の血糖値が224㎎/㎗であり,その後被告人はインスリンを注射していないこと,午後2時36分頃にコインパーキングから運転を開始する前にどら焼きとジュースを摂取していること,その時点において被告人が低血糖症の前兆を感じていなかったことという,差戻前第1審判決が認定した各事実を前提とすると,被告人が,自車の運転を開始する時点,又は少なくとも運転開始当初の時点において,運転中に低血糖症による意識障害に陥る可能性を具体的に予見することは実際上困難であったから,上記予見可能性を認めることはできない。


差戻しの理由

差戻前第1審判決は,被告人がコインパーキングから自車の運転を再開する際に低血糖症の前兆を感じていた事実が認められるかが主位的訴因と予備的訴因の成否を分ける分岐点になるとの理解に立っているが,上記事実だけからは主位的訴因の故意が認められることにならない一方,上記事実が認められなければ予備的訴因に係る予見可能性を認めるのは困難であるから,差戻前第1審判決の上記理解は不適切である。原判決は,自車の運転開始時又は運転中に低血糖症の前兆を感じていなかったという被告人の差戻前第1審公判供述に沿った認定をしているが,その認定判断は不合理である。被告人が,自車の運転開始時又は運転中に低血糖症の前兆を感じていたことを前提とした場合の過失責任の有無を争点として顕在化させた上で審理を尽くさせるため,本件を差戻前第1審裁判所に差し戻すべきである。
4
控訴審判決に対する弁護人の上告は棄却され,同判決が確定したため,
当裁判所に当審が係属した。
第2

当審における攻防の対象及び破棄判決の拘束力

本件の争点に対する判断を示す前に,当審における攻防の対象及び破棄判決の拘束力について説明する。
1
当審における攻防の対象

主位的訴因を認定しなかった差戻前第1審判決に対し,検察官は控訴を申し立てていないところ,このことから,控訴審において,主位的訴因がいわゆる当事者間の攻防の対象から外れたといえるかが問題となる。
そこで検討すると,本件主位的訴因(故意犯である危険運転致傷)と本件予備的訴因(過失犯である過失運転致傷)の本質的な違いは,正常な運転に支障が生じるおそれがあるとの認識の有無であって,前者が成立する場合には後者は成立しないと解されるから,主位的訴因を設定するかどうかは検察官の訴追裁量権が働く場面といえる。そうすると,被告人にそのような認識があるから故意犯としての重い刑事責任を問うべきであるとして本件主位的訴因を設定した検察官としては,同訴因を認定しなかった差戻前第1審判決に対して控訴し,危険運転致傷罪の適用を求めることができたといえるから,本件において検察官が控訴しなかったことの合理的意思解釈としては,主位的訴因の訴訟追行を断念したものと解するのが相当である。
したがって,主位的訴因は,控訴審において,当事者間の攻防の対象から外れたというべきである。そして,そうである以上,差戻審である当審においても,主位的訴因は攻防の対象から外れていると解される。
2
破棄判決の拘束力

ところで,本件控訴審判決における判断中,破棄の直接の理由となった原判決に対する消極的,否定的判断である,原判決が予見可能性を肯認した判断には事実誤認がある旨の判断に拘束力が生じていると解される。しかし,後記のとおり,当審において,予備的訴因について訴因変更された上,過失の有無の判断の前提となる事実関係についての検察官の主張が根本的に変更され(すなわち,検察官は,差戻前は,本件当日の朝以後,被告人がインスリンを注射していなかったことや,被告人が本件発進前に低血糖症の前兆を感じていなかったことを主張していたのに対し,当審においては,被告人が本件発進前の約1時間の間にインスリンを注射したことや,被告人が本件発進前に体が熱くなるという低血糖症の前駆症状を自覚していたことを主張している。),過失の判断構造が差戻前と異なるものとなったことや,医師2名の証人尋問を始めとする証拠調べを行ったことなどに照らすと,当審における判断に破棄判決の拘束力が及ぶことはない。
第3

当審における争点等
当審において,検察官は,予備的訴因について,判示罪となるべき事実と同旨の事実を公訴事実として訴因変更を請求した。同公訴事実においては,被告人が,本件当日午後2時36分頃,血糖値を測定せず,自己が低血糖の状態にないことを確認しない限り運転を差し控えるべき自動車運転上の注意義務(以下本件注意義務という。)があるのに,これを怠って本件発進をしたことをもって過失行為とされている。
このように,本件の争点は本件注意義務の存否であるが,その判断の前提となる実質上の争点は,以下のとおり,①

本件事故の際の血糖値の低下の原因

が,被告人が本件当日午後1時39分頃から午後2時36分頃までの間に追加インスリンを注射したためであると認められるかどうか,②
被告人が本件発

進時点で低血糖症の前駆症状を自覚していたと認められるかどうか,である。すなわち,検察官は,被告人は,本件当日午後1時39分頃から午後2時36分頃までの間に追加インスリンを注射し,その作用により自己の血糖値が降下することを認識していた上,現に本件発進前に熱感という低血糖症の症状を感じ,これにより自己が低血糖の状態にある旨認識していたから,本件発進時点において,その後の運転中に低血糖症による著しい意識低下の状態に陥る可能性があることについて予見できたとして,本件注意義務があった旨主張している(なお,検察官は,当審では,被告人が無自覚性低血糖症にかかっていたとの事実を主張していない。)。
これに対して,弁護人は,本件事故の際の血糖値の低下は,1型糖尿病,特に不安定型糖尿病の医学的に未解明な部分によるものであって,被告人が,検察官の主張する時間帯にインスリンを注射したことはなく,本件発進前に低血糖症の前駆症状を自覚していたこともなかったから,予見可能性はなかったなどと主張して,検察官の主張を争っている。
当裁判所は,上記①及び②の事実がいずれも認められ,本件注意義務が認められることから,判示のとおりの注意義務違反が認められると判断した。以下,その理由を説明する。
第4

当裁判所の判断

1
前提事実

以下の事実は,証拠上明らかに認められる。


被告人の糖尿病等

被告人は,本件の約40年前頃に,1型糖尿病を発症して以来治療を続けており,平成11年頃からは,主治医であるD医師の指導の下で,インスリン注射による治療を行っていた。
糖尿病は,インスリン作用の不足に基づく慢性的な高血糖を主な症状とする代謝疾患であり,代謝異常が長く続いた場合には合併症が出現し,進展すれば失明等の重大な結果をもたらす可能性があるほか,心筋梗塞等の原因となって生命をも脅かすおそれがあるなどとされている。


血糖値管理の必要性

血糖値は,食事,運動,ストレスといった種々の要因により,大きく変動するが,特にインスリン注射等による治療を行っている場合には,薬剤の量や食事量,運動量等によっては,低血糖になることがある。
一般には,血糖値が70ないし55㎎/㎗程度に低下すると冷汗や動悸,熱感等の自律神経症状(人によってその出方は異なるが,被告人の場合は,体温上昇を感じるなどというものである。)が現れ,50㎎/㎗程度に低下すると認知能力等が低下する中枢神経症状が現れ,更に30㎎/㎗程度まで低下すると大脳の機能が低下して意識消失等の症状が現れて,その状態が長時間続くと生命に危険が及ぶなどとされている(差戻後甲6)。
他方,高血糖の状態が続くと上記⑴で述べたような合併症を引き起こすおそれがあるので,糖尿病患者,特にインスリン注射等による治療を行っている者は,血糖値を適正な範囲内に保つよう管理する必要がある。
その上限については,合併症予防の観点から,過去一,二か月の平均血糖値を反映する血糖コントロール状態を示す指標であるHbA1c値を7パーセント未満とすることが目標値とされている。なお,この値に対応するおおよその目安となる血糖値は,空腹時の血糖値が130㎎/dl未満,食後2時間の血糖値が180㎎/dl未満である。
一方,下限については,自律神経症状が出始める70㎎/㎗前後がおおよその目安とされていると考えられる(差戻前甲50,当審Eの公判供述)。⑶

被告人の血糖値管理の方法等

被告人の糖尿病は,食事療法とインスリン療法によっても血糖コントロールが困難な,いわゆるブリットル型と呼ばれる血糖値の不安定な型であった(差戻前第1審甲34)。被告人は,本件当時,基本的には,1日3回の食前に,簡易血糖測定器を用いて血糖値を測定した上,追加インスリンであるノボラピッド及び持効型インスリンであるトレシーバを注射して,血糖値を調節していた。その際,被告人は,D医師の了解の下,測定値や食事量に応じて,自己の判断で注射する追加インスリンの量を調整していた。その他にも,被告人は,必要に応じて血糖値を測定し,高血糖の場合は追加インスリンを注射したり,低血糖の場合は糖分を摂取したりするなどの対処をしていた。
2
被告人,E医師及びD医師の供述の要旨等

実質上の争点①(血糖値低下の原因)及び同②(前駆症状の自覚の有無)に関する検察官及び弁護人の各主張の概要は前記第3のとおりであるが,検察官の主張は,主として被告人の捜査段階初期の供述の一部及びE医師の見解に依拠するものであり,これに対する弁護人の主張は,主として被告人の差戻前第1審及び当審の公判供述並びに被告人の主治医であるD医師の見解に依拠するものである(なお,両医師は,いずれも糖尿病の研究や臨床に長く携わってきた経歴を有する専門医である。)。
そこで,以下では,E医師及びD医師の各見解の当否を踏まえて,上記実質上の争点に関する被告人の供述の信用性を検討することとする。
被告人,E医師及びD医師の各供述の要旨等は,以下のとおりである。⑴

被告人の捜査段階初期の供述調書等の記載

被告人の逮捕直前の供述調書(差戻前第1審乙2)には,体も熱くなる低血糖の症状がbを出る時にあった旨の記載がなされている。⑵

被告人の差戻前第1審及び当審の公判における供述の要旨

被告人の差戻前第1審公判や当審公判における供述の要旨は,以下のとおりである。
自分は,午後1時39分頃に血糖値を測定して224㎎/㎗であると知ったが,とりあえず商品を届けようと思ったことや,外出先では自分の病状を知っている人がいないことから,追加インスリンを注射することはしなかった。本件発進の前,小腹がすいてのどが渇いていたことから,どら焼きとジュースを飲食した。当時,血糖値はおよそ180㎎/㎗くらいだと思っており,この飲食により血糖値が上昇するとは考えたが,血糖値が200㎎/㎗や300㎎/㎗あったとしても1時間や2時間程度であれば問題はないと考えた。この時は低血糖の兆候を感じていなかった。


E医師の当審公判供述(以下E供述という。)の要旨

E医師は,差戻前第1審では,被告人が本件当日午後1時39分頃から午後2時36分頃までの間にインスリン注射をしていないという前提での見解を求められていたため,同注射行為の有無について見解を示していなかったが,当審では,同注射行為の有無についても見解を求められて供述した。同医師の当審公判供述の要旨は以下のとおりである。

224㎎/㎗という血糖値の高さ

血糖値の224㎎/㎗という数値は,食前だとすれば非常に高い数値であって,それを知った1型糖尿病患者が,通常,これを下げるために,追加インスリンを注射した上,血糖値が下がって初めて食事をとるという対処をとるような数値である。しかも,本件事故前約3か月間の被告人の血糖値測定結果(差戻前第1審甲27添付。以下本件血糖値測定結果という。)や本件事故後のカルテの記載を具体的に見ると,被告人は,血糖値を下げたいという気持ちが普通の患者よりも強い人であることがうかがわれる。これらの点からすると,被告人が,224㎎/㎗という数値を知って,追加インスリン注射をしたと考えるのが合理的である。

被告人が本件発進前にどら焼きとジュースを摂取した事実

本件発進直前にどら焼きとジュースを摂取したという被告人の供述とそれらの糖質が合計約62グラムであることを前提とすると,それらを食べると,一般に血糖値が310も上がること,あるいは少なく見ても150は上がることが想定される。しかも,ジュースは固形物よりも速く胃から小腸に届くので,ジュースは低血糖を感じた場合の補食として有用なものである。どら焼きも血糖値を上げる速度は比較的早い方である。
このように,どら焼きとジュースを摂取すると,血糖値を早く,かつ猛烈に高く上げるものであり,血糖管理状態の良い患者であれば,224㎎/㎗という数値を知り,かつ,低血糖の症状を感じていないのに,どら焼きとジュースを摂取するとは考えられない。むしろ,通常の低血糖の状態でも食べないほどのものであるから,本件当日は低血糖状態を非常に強く感じて危機感を覚えていたためにどら焼きとジュースを摂取したのだと考えられる。そうすると,被告人は,本件発進時点で,低血糖の症状を感じていたと考えるのが合理的である。これに加えて,追加インスリンの効果が最も出るのは注射後約1時間後であることや,追加インスリンを注射しないのに本件のように血糖値が224㎎/㎗から32㎎/㎗まで急激に下がることは普通考えられず,これまでの被告人の血糖値の変動状況を見ても同様であることや,急激に血糖値が下がる場合には低血糖の症状を感じやすいことも考えると,被告人が強い低血糖を感じてどら焼きとジュースを摂取したという事実から,その原因として,被告人が追加インスリンを注射したことが推測される。
なお,どら焼き等の補食にもかかわらず低血糖状態となったのは,注射したインスリンの量が多かったためと考えられる。

血糖値低下の原因を解明するのは不可能であるという後記D医師の
見解に対して
一般に原因不明で血糖値が低下した患者はいるが,昏睡までいくことはほとんどなく,本件のような血糖値の低下には必ず何らかの理由がある。インスリンが皮下にたまる皮下硬結は,インスリンが後から効いてくるというよりは,注射の効き目が低下するという報告ばかりである。また,血糖値を上げるホルモンが制御されているという点については,常にそうであるから,急激な低下とは関係ないと思う。


D医師の差戻前第1審及び当審公判供述(以下D供述という。)

の要旨
D供述の要旨は以下のとおりである。
被告人の糖尿病は,インスリンの分泌が完全に枯渇しているだけでなく,血糖値を上げるホルモンも枯渇してきているため,血糖値の変動が非常に激しく,1型糖尿病の中でも特別な不安定型糖尿病である(にもかかわらず救急車で搬送されたことが2回しかないのであるから,コントロールが非常に優秀であるといえる。)。
午後1時39分頃の224㎎/㎗という血糖値は,その時間帯を考えると高くもなく低くもないから,食事とインスリン注射を後回しにするということは普通の行動である。まして,自動車を運転する前であれば,224㎎/㎗という数値を下げるために,何も食事をとらないままインスリン注射をするということは無謀である。日頃から適切に血糖値をコントロールしている被告人がそのようなことをするはずがない。
本件発進時点での血糖値は,被告人が不安定型であるため分からないが,まだ高い状態にあった可能性はある。そして,もしその時点での血糖値が高くても,どら焼きとジュースを取るくらいは,昼食をとっていないときの間食として,問題はなく,万が一の低血糖に備えて食事代わりに摂取したと考えられる。一方,もし本件発進時点で低血糖を感じていたとすれば,どら焼きとジュースをとるのではなく,血糖値の上がりの速い単糖類であるグルコレスキュー(ブドウ糖ゼリー)を大量に取るはずである。そうでなくどら焼きとジュースを取ったということや,血糖値を測っていないことからすると,当時,被告人は低血糖による緊急性を感じていなかったと考えられる。
午後1時39分頃に224㎎/㎗という値になった後,インスリンを注射していないのに,午後3時59分頃に意識障害を起こすほどの低血糖になるということは,現実に起きたことなので,起こり得ると思う。その原因については,私の想像だが,例えば,皮膚の下に硬結としてたまっていたインスリンが急に吸収されたとか,血糖値を上げるホルモンが制御されたなどということかもしれないが,いずれにせよ,1型糖尿病は医学的に未解明な部分が多いため,今までの医学では予期せぬことが起きたと考えられ,上記の原因を解明するのは不可能である。
結局,本件当日,初めて無自覚性低血糖を起こしたと考えられる。3
被告人,E医師及びD医師の各供述の信用性等について


どら焼きとジュースを摂取した事実の有無について

E供述もD供述も,被告人が本件発進行為の前にどら焼きとジュースを摂取した事実を前提としているので,まずその存否を検討する。
この事実は,当事者間に争いがなく,被告人が捜査段階から一貫して供述している上,本件自動車内からどら焼きの袋やジュースの空き缶が発見されるなど一応の裏付けもあることや,他の可能性を具体的にうかがわせる証拠もないことから,認めることができる。


E供述について

E供述で示された見解は,専門家の立場から,午後1時39分頃の被告人の血糖値や,被告人が本件発進前にどら焼きとジュースを摂取したこと及びその血糖値上昇効果といった事実関係を基礎として,糖尿病患者の行動を合理的に説明するものである上,血糖値低下の原因についても合理的に説明するものであって,十分信頼できるものである(なお,どら焼きとジュースの摂取による上昇の程度について,D医師は少なくとも100㎎/㎗であると供述しているが,それによっても血糖値上昇効果がかなり高いといえる。)。特に,午後1時39分頃に224㎎/㎗という血糖値を知って,それを下げるために追加インスリンを注射したが,それが効きすぎて血糖値が大きく下がり,低血糖症の前駆症状を感じたために午後2時36分前頃にどら焼きとジュースを摂取し,だから血糖値は上がるだろうと思って運転を続けた,という一連の経過の説明は,血糖値の変動と被告人の行動とを合理的かつ整合的に説明するものである。
また,空腹時の血糖値としての224㎎/㎗という数値が,1型糖尿病患者が,通常,追加インスリンを注射するような数値であるという点は,上記1⑵のような血糖値管理の目安の数値に照らして,不合理ではない。
のみならず,午後1時39分頃の時点で224㎎/㎗という高い血糖値が測定されているのに,その後追加インスリンを注射せず,そのため血糖値が大幅に下がることが期待できない状態で,特段の理由なく午後2時36分前頃に血糖値を更に大きく上昇させるような行動をとるということは,通常の糖尿病患者の行動として見ても不合理な行動であると考えられる上,後記のとおり高血糖を気にする被告人の傾向としては猶更不合理な行動であると考えられるのであって,E供述はこの点を合理的に説明しているのに対し,他の説明では合理的説明が非常に困難である。

なお,E医師は,上記のとおり,被告人は,本件当時,高血糖を気
にし,血糖値を下げたいという気持ちが普通の患者よりも強い人であるという点を自己の見解の中で用いているので,本件当時の被告人の血糖値管理の傾向について付言する。
まず,被告人が,長い治療歴の中で,血糖値を頻回に測定し,その時々の状態に応じてインスリンの量等を自分で調節するなど,高い意識をもって熱心に血糖値管理に取り組んでいたことは,主治医であるD医師が供述するとおりであり,これは,本件事故以前のカルテ(差戻前第1審甲34)や,本件事故直近のHbA1c値が6.3パーセントという値であったこと等により裏付けられている。また,被告人は,低血糖となった場合の危険性についても知識がなかったわけではないと思われる。
しかしながら,本件血糖値測定結果を子細にみると,180㎎/㎗を超える血糖値が測定されて被告人が追加インスリンを注射したと認められる場合のうち,相当数が,食後とみられる時間帯であっても,低血糖値(70㎎/㎗未満)やその近くまで低下していることや,本件血糖値測定結果が,前記1⑵で述べたような空腹時の血糖値130㎎/dl未満,食後2時間の血糖値180㎎/dl未満という血糖値管理の目安に照らし,全体として低い値が目立つものとなっていることが認められる。E医師のみならず,糖尿病の専門医であるF医師も,差戻前第1審の公判において,同測定結果を見て,被告人は,糖尿病の合併症を防ぎたいという気持ちが強すぎて低血糖のリスクが高く,血糖値コントロールに問題がある旨の見解を述べている。
そうすると,被告人が,本件当時,高血糖を気にし,血糖値を下げたいという気持ちが普通の患者よりも強かったというE医師の指摘は正当であるといえる。
これに対し,D医師は,被告人は,1型糖尿病の中でも不安定型の病態であるとした上,本件血糖値測定結果において低血糖の値が多くみられても,それは被告人が意図的に調節したものではないなどと指摘する。
確かに,被告人の糖尿病が不安定型の範ちゅうに入っており,被告人にとって個々の血糖値の調節に難しい面があることは否定できない。しかし,上記のような低血糖の数値の全体的な傾向は,被告人が,低血糖状態の数値が頻繁に出ていることを認識してもなお,その後も低血糖となるほどのインスリンの量の注射を続けていたことを示しているとみるのが合理的であって,不安定型による血糖値調節の困難さのみに由来するとは考えられない。

弁護人は,仮に本件発進前に被告人が低血糖の状態を自覚していた
としたら,血糖値を直ちに回復させるグルコレスキューを摂取し,血糖値を測定するはずであるのに,被告人がそれらを行っていないことからすれば,当時,被告人が低血糖の状態になく,従って,追加インスリンを注射していないことを示していると主張している。
しかし,ブドウ糖や砂糖を含むジュースは,グルコレスキューと並んで血糖値を早く上昇させる効果があるものとされており,D医師も,運転時の低血糖に備えて車の中にブドウ糖やジュースを準備するように指導していたことからすれば,低血糖の対策という点で,被告人が携行していたジュースとグルコレスキューの間に大きな違いはないものと考えられる。また,追加インスリンを注射し,更に低血糖の症状を感じていた場合には,それにより自らが低血糖の状態であることを認識することは可能であるから,血糖値を測定しなかったからといって,不自然とはいえない。そうすると,この弁護人の主張も,被告人が追加インスリンを注射したとの推認を覆すものとはいえない。


D供述について

D医師は,被告人が,本件発進前にどら焼きとジュースを摂取した事実について,これらを間食として取ることは問題なく,万が一の低血糖に備えて食事代わりに摂取したと考えられる旨説明している。しかし,D医師がいうように,これまで被告人が原因不明の低血糖により著しい意識低下の状態になったことはなかったのであれば,224㎎/㎗という高い血糖値が測定されたわずか1時間後に,万が一の低血糖に備えて,しかも,前記のようないずれも糖分を多く含む飲食物を併せて摂取する必要性を見出すことは困難である。D医師は,この事実を合理的に説明できていないといわざるを得ない。
また,D医師は,被告人の血糖値が大幅に低下した原因について今までの医学では解明することができないと供述している。しかし,被告人について,そのような原因不明の血糖値の低下をうかがわせる事情があったというわけではなく,単なる抽象的一般的な可能性の指摘にとどまる上,D医師が挙げた血糖値低下の機序の可能性についてもE医師による説得的な反論がなされているところであり,しかも,上記のとおり,D医師の供述に不合理な点があることに照らすと,D医師の上記供述は,既に述べたような本件当日の被告人の血糖値の推移と被告人の具体的な行動に基づく推認を揺るがすものではない。⑷

小括

以上述べたところによれば,E供述の見解は相当であり,これに反するD供述の見解はこれを揺るがすものではない。
したがって,E供述で示されたとおり,被告人が,224㎎/㎗という数値を知って,追加インスリン注射をした事実と,その影響もあって血糖値が急激に下がり,本件発進時点で,低血糖の症状を感じていた事実が合理的に推認される。
また,そうすると,午後1時39分頃の後本件発進までにインスリン注射をしていないとか,本件発進時に低血糖症の前駆症状を感じていなかったという被告人供述は,上記推認に反するものであって,信用できない。
一方,体が熱くなる低血糖の症状があった旨の被告人の逮捕直前の供述(差戻前第1審乙2)は,上記推認に沿うものであって,信用できるというべきである。
以上によれば,被告人が午後1時39分頃の後本件発進までに追加インスリン注射をした事実と,被告人が本件発進前に,低血糖症の前駆症状として体が熱くなることを自覚していた事実が認められる。
4
本件注意義務の有無について


これまで述べたように,被告人が本件発進前に低血糖症の前駆症状を
自覚していたと認められるが,一方で,被告人はどら焼きとジュースを摂取して血糖値を上昇させる措置を採っているので,その後の運転中に自己が低血糖症による著しい意識低下の状態に陥る可能性があることについて予見できたかどうかが問題となる。
しかし,一般に,糖尿病においては,糖分を補食しても血糖値が上昇しないことがあること(被告人もそのことを認めている。)や,本件において,被告人が,自己が血糖値を下げるために追加インスリンを注射した後,少なくともその効果があって血糖値が急激かつ大幅に下がり,低血糖症の前駆症状を感じる状態にまでなっていることを認識していることからすれば,その後もインスリンの効き具合等如何によっては,どら焼きとジュースの摂取だけでは血糖値を回復できない可能性があることは予見できたといえる。


そして,意識低下の状態で自動車を走行させることがもたらす交通の
危険性の大きさに照らすと,上記の予見ができた以上,被告人には,本件発進に当たって,携帯していた簡易血糖測定器で自己の血糖値を測定するなどして,自己が低血糖の状態にないことを確認しない限り運転を差し控えるべき注意義務があったというべきであり,かつ,これは糖尿病患者に対して非現実的な対処を強いるものではないと考えられる。


以上によれば,被告人には,本件発進時点で,本件注意義務があった
というべきである。
第5

結論

よって,判示のとおり,被告人には,本件当日午後2時36分頃,携帯していた簡易血糖測定器で自己の血糖値を測定するなどして,自己が低血糖の状態にないことを確認しない限り,運転を差し控えるべき自動車運転上の注意義務があるのにこれを怠り,同測定器で自己の血糖値を測定せず,自己が低血糖の状態にないことを確認しないまま漫然運転を開始した過失が認められる。(法令の適用)
1罰条
被害者ごとに自動車の運転により人を死傷させる
行為等の処罰に関する法律5条本文

2
科刑上一罪の処理

刑法54条1項前段,10条(1個の行為が3個
の罪名に触れる場合であるから,1罪として犯情
の最も重いBに対する過失運転致傷の罪の刑で処
断)

3
刑種の選択

禁錮刑を選択

4
刑の全部執行猶予

刑法25条1項

5
訴訟費用の負担

刑事訴訟法181条1項本文(当審における訴訟
費用を被告人に負担させる。なお,差戻前第1審
における訴訟費用は被告人に負担させない。)

(量刑の理由)
本件は,糖尿病患者である被告人が,運転中に低血糖症による著しい意識低下の状態になり,自車を暴走させて,3名の被害者に傷害を負わせた事案である。
その過失の態様をみると,被告人は,インスリンを注射し,運転前には自身が低血糖の状態にあることを認識していたにもかかわらず,糖分を多く含む飲食物を摂取しただけで,運転中に低血糖による意識障害に陥ることはないものと軽信したものであり,過失の程度は軽くない。また,被害者のうち1名は,本件により加療約3か月間を要する重傷を負ったほか,暴走する車に轢かれて大きな恐怖を受けたものであって,生じた結果は重大である。
そして,被告人は,不合理な弁解をしており,本件に真摯に向き合っているとはいい難い。しかし,一方で,被害者全員と示談が成立したこと,前科を有しないことなど被告人に有利な事情も認められ,さらに,本件が,差戻前第1審判決に対して被告人のみが控訴した事案であることも踏まえて,主文の刑に処するのが相当と判断した。
(求刑

禁錮1年6月)

令和元年5月22日
大阪地方裁判所第7刑事部

裁判長裁判官

野口
裁判官

井卓谷志喬
裁判官谷口真紀は,異動のため,署名押印できない。

裁判長裁判官

野口卓志
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