判例検索β > 平成30年(わ)第1046号
殺人被告事件
事件番号平成30(わ)1046
事件名殺人被告事件
裁判年月日令和元年5月31日
法廷名横浜地方裁判所
裁判日:西暦2019-05-31
情報公開日2019-07-12 12:00:11
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主文
被告人は無罪

第1


公訴事実の要旨

本件公訴事実の要旨は,被告人は,平成29年12月12日午後11時30分頃(以下,同日の夜から同月13日未明までを本件当夜という。),相模原市甲区内の歩道上(以下本件現場という。)において,被害者(当時60歳)に対し,殺意をもって,持っていた刃物で,同人の左胸部,右上腹部及び右大腿部を突き刺すなどし,よって,同人を多発刺創に基づく出血性ショックにより死亡させて殺害した,というものである。
第2

争点及び争点に関する当事者の主張

本件において,何者かが,上記日時・場所において,被害者に対し,上記犯行に及んだことについては争いがなく,関係証拠からも認定できるが,被告人が犯人であるかが争点となっている。
そして,検察官は,①被告人の眼鏡及びたばこの箱が本件現場に落ちていたこと,②被告人の自宅アパート(以下本件アパートという。)の駐輪場(以下本件駐輪場という。)に,被害者の血液が付いた自転車(以下本件自転車という。なお,本件自転車の所有者は本件アパートの当時の住人であるA1である。)があったこと,③被告人が,本件当夜に外出し,帰宅後すぐに,衣服を捨てたことがあったこと,④被告人の年齢,体格等は犯人のそれと矛盾しないことから,被告人が犯人である旨主張している(以下,上記①ないし④を順に事実①ないし④という。)。
当裁判所は,事実①は,その事実だけでも,被告人が犯人であることを推認させる程度はそれなりに高いといえるが,事実②及び④は,それぞれ単独では,被告人が犯人であると推認させる程度は低い上に,事実③はそもそも認定できないことから,事実①,②及び④を組み合わせた全体としての事実関係について総合評価して
も,被告人が犯人であることについて合理的な疑いを差し挟む余地がない程度の立証がされたとはいえないと判断した。以下,詳述する。
第3

検討

1
事実①について



認定できる事実


本件犯行の約2時間後(平成29年12月13日午前1時30分頃)から実
施された実況見分により,本件現場において,右側のツルが折れて欠損した眼鏡(以下,単に眼鏡本体という。),眼鏡の右側のツル(以下,単に眼鏡のツルという。)及びたばこの箱(以下本件たばこの箱という。)が発見された。この眼鏡本体は,その付着物のDNA型が被告人のそれと一致し,その度数や乱視があることも被告人の視力と矛盾しないこと等からすれば,被告人が,本件当時これを着用していたと認められる。そして,上記眼鏡のツルに付された品番が,眼鏡本体のそれと一致していることに加え,それぞれの形状や破損箇所,遺留地点が近接していたことに照らせば,上記眼鏡本体と上記眼鏡のツルはもともとは一体であった眼鏡が分離したものであって,いずれも被告人が本件当時着用していた眼鏡の一部であると認められる(以下,上記眼鏡本体と上記眼鏡のツルを併せて本件眼鏡という。また,以下,本件眼鏡と本件たばこの箱を併せて本件遺留物という。)。さらに,被告人は日常生活において眼鏡を常用していたことからすれば,被告人が本件現場に本件眼鏡を遺留したと認められる。
また,本件たばこの箱から採取された指掌紋が被告人の左母指と一致するので,本件たばこの箱は被告人が触れたことのあるものであると認められる。そして,本件の目撃者であるa及びb(以下,両名を併せて本件目撃者らという。)が他人を介して警察に通報してから警察官が臨場するまでの間に,本件現場に他の者が足を踏み入れていないことからすれば,本件遺留物は,遅くとも犯人が逃走した同月12日午後11時30分過ぎまでに本件現場に遺留されたものと認められる。


次に,本件眼鏡がいつから遺留されていた可能性があるか検討すると,本件
現場に面しているマンションの清掃を担当していたcは,同日午前11時頃から正午頃にかけて,上記マンション及び本件現場を含む上記マンション周辺の歩道の清掃を行った際,本件眼鏡を見た記憶はない旨証言している。しかしながら,cは,上記マンションの清掃員として,上記マンション内の清掃に付随して,その建物から1mくらいの範囲の外周を清掃しているにすぎない上,c自身,自分の担当から外れる歩道については,時間をかけてゴミを拾おうという感覚はない旨証言していること,他方で,本件眼鏡の遺留場所(眼鏡本体は本件現場付近の歩道のうち車道に接した位置に,眼鏡のツルは上記マンションから約1m余り離れた位置にそれぞれ遺留されていたこと)に照らせば,cが清掃時に本件眼鏡を発見しなかった可能性は否定し難い(そもそも,cが清掃した当時,本件眼鏡が眼鏡本体と眼鏡のツルに分離していなかったり,分離していても眼鏡のツルも眼鏡本体と同様に車道に接した位置に遺留されていたり,眼鏡本体も上記実況見分時よりも更に上記マンションから離れた位置に遺留されていたりした可能性も否定できず,その場合,cが,本件眼鏡を発見しなかった可能性は更に高くなる。)。そのため,cの上記証言のみから,cが上記清掃をした当時には本件眼鏡が遺留されていなかったと認めることはできない。
もっとも,cの上記証言に加え,被告人と親しい同僚であり,職場で毎日被告人と顔を合わせ,被告人が眼鏡を着用せずに出勤した初日にはその変化に気付いたというdが,同月13日の夜,眼鏡をなくした被告人を労わる趣旨のメッセージをラインで送信していることにも照らせば,本件眼鏡が,同月12日の被告人の職場の終業時刻以降,すなわち同日午後5時30分頃以降に遺留された可能性が高いという限度では認定できる。
なお,検察官は,被告人の供述に依拠し,被告人は本件眼鏡を同日午後9時49分以後に落とした旨争いがない事実として主張する。検察官の主張は,本件犯行に及んでいないことを内容とする一連の被告人の供述のうち,自身が犯人であること
を否定したり,本件遺留物を本件現場に遺留した原因として考えられるところを供述したりする部分についてはその信用性を否定しているにもかかわらず,それらの前提となる外出時刻に関する部分についてその信用性を肯定するというものであり,一体となっている被告人の供述の一部のみを取り上げてその信用性を肯定する合理的な理由を何ら説明していない(被告人の供述によれば,被告人は,本件当夜,職場から帰宅した後,外出して本件遺留物を紛失し,その後,もう一回外出したことになる。以下,本件遺留物を紛失した際の外出の方を本件外出という。)。すなわち,検察官は,本件外出が,被告人が本件当夜に被告人の同僚であるeに対してラインで送信した最後のメッセージの送信時刻よりも後にされたものであることを前提に,本件眼鏡が遺留された時間帯の始期を特定していると解されるが,この主張は,同日午後10時頃に出かける前に自宅でeとラインのメッセージのやり取りをしたという被告人の供述が信用できることを前提とすることになる。検察官は,上記合理的な理由を主張していないが,この被告人の供述は,被告人とeとの間のラインのやり取りにより裏付けられていると考え,その信用性は本件当夜の行動に関する供述の信用性とは異なると解しているのかもしれない。しかしながら,この被告人の供述自体それほど明確なものではない上に,ラインのやり取りには,被告人の外出に関連する内容が含まれていない。被告人の供述以外の関係証拠を通覧しても,被告人とeとのラインのやり取りが,本件外出の間や,本件外出から帰宅した後にされた可能性を排斥できないのであるから,被告人の供述を前提に,本件外出の出発時刻を認定することはできない(なお,被告人は,本件外出時には携帯電話機を持って行っていなかったと思うとも供述しているが,被告人が犯人である場合,被告人は外出中に刃物を携帯しているのであるから,本件外出時の持ち物に関する被告人の供述は信用できないことになるはずである。また,被告人は,本件外出時に自分の自転車を運転していたことを前提に,同自転車はマウンテンバイクであり,携帯電話機を操作しながら運転するのは難しいので,本件外出時に自転車を運転しながら携帯電話機を操作していないと供述しているが,被告
人が犯人であるとすれば,被告人は自分の自転車ではなくA1所有の自転車を運転して外出したことになるのであるから,本件外出時に自転車を運転しながら携帯電話機を操作していないという供述の前提となる,被告人が外出時に運転していた自転車に関する供述は信用できないはずである。このように,被告人の,本件外出時に携帯電話機を持って行っていないという供述や,本件外出時に自転車を運転しながら携帯電話機を操作していないという供述と,上記ラインのやり取りは本件外出前のものであるという供述とは内容的にも不可分である点からも,外出時刻に関する部分のみについてその信用性を肯定することはできない。)。したがって,検察官の主張は採用できない。

また,本件たばこの箱が本件眼鏡に近接して遺留されていたことに照らせ
ば,本件たばこの箱は,本件眼鏡と同時に,被告人によって遺留されたと認められる。


認定した事実の検討

以上の事実からすれば,被告人は,本件犯行を含む時間帯に,本件現場において,本件遺留物を落とし,しかも,それらを拾わなかったということになる。そして,本件眼鏡は被告人が日常生活において常用していたものである上,本件たばこの箱には未使用のたばこ3本が入っていたにもかかわらず,これらを拾うなどしていないことからすると,本件遺留物を落とした際に,被告人がこれらを拾うことができない事情があったと考えられる。そして,本件の犯人は,被害者と殴り合い等の暴力を伴う激しい喧嘩をした後,本件現場から逃走しているが,被告人が,本件犯行時に本件遺留物を落としたが,本件現場から逃走する必要があることから,やむを得ず本件遺留物を拾わなかったということも考えられる。
その一方で,本件現場は被告人の生活圏内にあり,上記のとおり本件遺留物が遺留された時間帯にはかなりの幅があること,本件において,犯人が眼鏡を着用しており,本件犯行の際にそれを落としたというような,本件遺留物と本件犯行とを直接結び付ける事情はないことに照らせば,本件遺留物を本件現場に落とした原因
や,被告人が本件遺留物を拾わなかった原因が本件犯行に限定されるとまではいえず,例えば,酒に酔っていたために転倒するなどして本件遺留物を落としたが,酒に酔って合理的な判断をせずにそのまま本件現場を立ち去ったという可能性など,様々な可能性が想起できるし,本件たばこの箱については,これを落としたこと自体に気付かなかった可能性も否定できない(なお,検察官は,被告人が本件遺留物を同日午後9時49分から同日午後11時30分過ぎまでの間に遺留したことを前提に,本件現場付近で,眼鏡を拾えない事件が起こるという偶然は考えられない旨主張するが,被告人が本件眼鏡を遺留した時間帯に関する主張が採用できないのは上述したとおりであるし,検察官の主張する時間帯を前提としたとしても,なお相当の時間的な幅があることには変わりがなく,結局,本件以外の原因により本件遺留物が遺留された可能性を排斥することはできない。)。
そうすると,認定した事実は,この事実だけでも,被告人が犯人であることを推認させる程度,すなわち,被告人が犯人であると証明する方向に働く程度がそれなりに高い事情であるとはいえるが,それ以上に高いものであるとはいえない。なお,弁護人は,本件眼鏡及び本件たばこの箱が上記実況見分時に発見された位置と本件目撃者らが目撃した犯人と被害者がもみ合っていた位置が離れていること等を指摘して,本件眼鏡及び本件たばこの箱は犯行時に遺留されたものではない旨主張する。しかし,その離れ方がさほど大きくはない上に,本件目撃者らは,本件犯行の全てを注視していたわけではない以上,犯人が本件遺留物が遺留された位置にいた可能性や,本件遺留物が落ちた後,犯人と被害者の喧嘩の際に蹴られるなどして移動した可能性は十分にあるから,弁護人の主張は,採用できない。2
事実②について



認定できる事実


犯人は,本件犯行後,自転車に乗って本件現場から逃走したが,後日,本件
駐輪場において発見された本件自転車のフレーム,チェーンカバー及び後ろブレーキから採取された6つの人血のDNA型が被害者のそれと一致したこと,人血の付
着箇所,本件自転車の所有者であるA1と被害者には面識がなく,本件現場と本件駐輪場との間は直線距離で約765m離れていることに照らせば,本件犯行以外の機会に被害者の血液が本件自転車に付着するとは考え難く,上記血液は本件犯行時に付着したと認められる。さらに,本件自転車は,日頃から無施錠で誰でも出入り可能な本件駐輪場に駐輪されていたこと,A1が,本件の頃に本件自転車を盗まれたことがあるとは証言していないことにも照らせば,犯人は,本件犯行前に本件駐輪場から本件自転車を持ち出し,本件犯行後に本件自転車を本件駐輪場に戻したと認められる。

なお,検察官は,本件現場周辺に設置された複数の防犯カメラの映像の精査
を行った警察官であるf警察官の証言する走行経路で犯人が本件自転車を運転していたことを前提としているものと解される。この点について,審理の経過に鑑み付言すると,f警察官による捜査手法は,防犯カメラに映った自転車及びその運転者が犯人の特徴と整合するかという観点や,防犯カメラで映された一連の場所を同一人が走行したと考えて時間的に矛盾しないかという観点から精査した防犯カメラの映像の範囲で,自転車や犯人の特徴と整合する自転車運転者を犯人として特定し,その結果,犯人が映りこんでいると考えられた14台の防犯カメラの位置をつなぎ合わせて犯人の走行経路を特定するというものであるが,上記の特徴はいずれもごくありふれたものにすぎない。また,走行経路とするところの途中には,防犯カメラには映らないいくつもの交差道路が存し,犯人と特定していた者が他の自転車運転者と入れ替わっていた可能性を否定し切れない。したがって,ある防犯カメラに映った自転車運転者と,他の防犯カメラに映った自転車運転者の同一性については,同一人物であると考えて矛盾しないといえるにとどまり,f警察官の証言に基づいて,犯人の走行経路を認定することはできない。


認定した事実の検討


まず,本件アパートが駅から離れ,幹線道路から何本も入った丁字路の行き
止まりに面した場所に所在することからすると,犯人が,その近隣にも居住してい
ないのに,あえて本件アパートの駐輪場から本件自転車を持ち出し,犯行後に本件自転車を本件アパートの駐輪場に戻す可能性は低いと考えられるので,少なくとも,本件アパート又はその近隣の住民が犯人である可能性は高いと考えられる。そして,検察官は,本件アパートの住人が犯人である可能性が高いとした上で,被告人以外の住人は犯人と特徴が一致しない旨主張しているので,そのような検察官の主張の当否を検討する。

まず,被告人以外の本件アパートの住人が犯人である可能性が排斥できるか
検討すると,本件目撃者らは,本件犯人は年齢が30代の男性,身長が被害者と同じくらい(被害者の身長は164㎝である。),小太り又は中肉中背,顔が下ぶくれ又は丸顔であり,目はたれ目であるなどと証言している(なお,この証言は,事実④に関連して後述するように,被告人の特徴と矛盾するものではない。)。そして,本件アパートに居住している被告人以外の男性は,B,A2,A3及びA1であるが(A2,A3及びA1はA2が父親,A3が長男,A1が次男の家族であり,本件当時はこの3名で同居していた。この3名を,以下A家という。),Bは身長が約180㎝であること,A3は体格が細身で顔つきも丸顔ではないことから,いずれも犯人と特徴が齟齬している。また,A2は身体の障害により外出には車いすが必要で,自転車を使用できないことからすれば犯人ではない。他方で,A1の犯行当時の身長,体格及び顔つきは犯人のそれと矛盾しない(これらの点について,A1は,現在と犯行当時とで大きく変化したとは証言していない。)。また,A1は本件当時高校1年生で,年齢の点で犯人とは整合しないとも思われるが,そもそも,本件目撃者らは,必ずしも犯人の顔を注視できたわけではなく,周囲が暗い中で体型や服装等に基づく全体的な印象から犯人の年齢層を推測したにすぎないから,当裁判所に顕著なA1の風貌(たれ目でかつ視認状況によっては30代に見えることがないとはいえない)も考慮すると,A1の年齢が犯人の年齢層に関する本件目撃者らの証言と整合しないとはいえない。
もっとも,A1及びA2は,A1は平成29年12月12日に学校から帰宅した
後,夜に外出することはしていない旨証言するので,両名の証言によりA1が犯人である可能性が否定されないか検討する(なお,A3は,同日の午後10時30分頃に帰宅した時点で,A1が同人の自室にいたと証言するにとどまるから,A3の証言を前提としても,A1が犯人である可能性は否定できない。)。まず,A1は,同日は,同人が使用する携帯電話機にインストールされた万歩計の機能を備えたアプリに,午後4時44分以降に歩数が計測された記録がないので,その頃に帰宅し,その後外出もしていない旨証言する。しかしながら,A1は本件自転車の所有者として捜査機関から本件の被疑者として取り扱われていたことからすれば,A1には虚偽の証言を行う動機が認められる。また,上記携帯電話機は故障のため充電し続けなければ電源が入らず,A1は外出している際にはモバイルバッテリーで上記携帯電話機を充電し続けていたが,外出中にモバイルバッテリーと上記携帯電話機の接続が切れたり,モバイルバッテリーの電池が切れたりしたために上記携帯電話機が充電されない状態になり,上記アプリが作動しない状態になっていた可能性はあるし,A1が外出時に上記携帯電話機を持ち歩かなかった可能性もあるから,上記アプリの記録から,A1が本件当夜に外出しなかったと断定することはできない。したがって,A1の証言を信用して,A1が犯人である可能性を否定することはできない。
次に,A2は,A1が同日午後8時頃に帰宅してから夜に外出したのを見た記憶はない旨証言するが,A1の父親であるため虚偽の証言を行う動機は否定できない上,同日のA1の行動について明確な記憶に基づいて証言しているわけではない。また,A2自身,A1が帰宅した後,同人の自室にいるかどうかの確認まではしておらず,自分が居眠りをしている間にA1が外出したらそれに気付かない可能性があることは認めている上,A2において,A1が外出しないか注意を払っていたとも認められないから,A2の証言を前提としても,A1がA2に気付かれることなく外出することができないとはいえない。そうすると,A2の証言からA1が犯人である可能性を否定することはできない。

したがって,被告人以外に,A1が犯人である可能性も残ることになる。ウ
次に,本件アパートの住人が犯人である可能性が高いといえるか検討する
と,検察官は,この点に関し,本件アパートの住人でないと,本件自転車が施錠されていないことに気付く機会がない旨主張している。しかしながら,A1は,A家の家事援助を担当するヘルパーが本件自転車を使用できるように,本件自転車を施錠せずに本件駐輪場に駐輪しており,本件アパートの向かいのアパートや,本件アパートと隣接する一軒家の住人などが,本件自転車が本件アパートにおいて施錠されずに駐輪されている状況や,A1が施錠せずに本件自転車を駐輪する状況,あるいは本件自転車の所有者ではない上記ヘルパーが本件自転車を使用する状況等を見かけることで,本件自転車が施錠せずに駐輪されていることを知る可能性は十分にある。したがって,検察官の主張は採用できず,犯人が本件アパートの近隣住民である可能性も十分にあるといえる。

以上に加え,被告人は,本件の約2週間前に本件アパートに転居したばかり
で,A1が本件自転車を使用する時間帯を把握していたと断定することはできない上,多くの部品を取り替えるなど愛着のある自転車を所有していたことも踏まえると,A1や本件アパートの近隣住民と比べて,被告人の方が本件当夜に本件自転車を使用した可能性が高いともいえないから,上記認定事実は,この事実だけでは,被告人が犯人であることを推認させる程度,すなわち,被告人が犯人であると証明する方向に働く程度は低いものにとどまるというべきである。
3
事実③について

検察官の主張は,被告人の妻であるgの証言に依拠しているが,gは,平成29年12月頃の夜,被告人が,gの入浴中,酒を買うためと思われる外出をし,それから帰った後に衣服を捨てたという出来事があり,その後日,gは,被告人から,3日くらい前に,酒に酔って転んだことで眼鏡をなくしたと言われたので,被告人が衣服を捨てた日に眼鏡をなくしたのだと思った旨証言している。gの証言によれば,被告人が衣服を捨てた日が,眼鏡をなくした日,すなわち本件当夜である可能
性はあるものの,gがそのように考えた客観的な根拠があるわけではない。また,gは,被告人から,眼鏡をなくしたのは酒を買いに行った日だとも言われたと証言しているが,その点について記憶がないとも証言している。そうすると,gの証言を前提としても,被告人が本件当夜に衣服を捨てたとは言い切れず,検察官が主張する事実③は認められない(なお,仮に,被告人が衣服を捨てたのが本件当夜であったとしても,gは,被告人が嘔吐して汚したという上衣はよく見ていないが,被告人が着用していたズボンは汚れておらず,被告人の身体に血は付いていなかった旨証言しており,被告人が衣服を捨てたことが直ちに被告人が犯人であることに結び付くとはいえない。かえって,本件犯行は,犯人が手にした刃物を突き刺すような態様で行われ,その結果,被害者は深さ10㎝以上の深い創傷4か所を含む多数の創傷を負い,本件現場にも大量の血痕が残されていたのであるから,犯人が返り血を浴びた可能性は相当に高いと考えられるのにもかかわらず,被告人の身体や着衣に血痕がなかったことはむしろ被告人が犯人であることと整合しない事情である。また,本件目撃者らは,犯人は黒っぽい色の服装を着ていた旨供述するが,gは,被告人が捨てた衣服は,上衣が灰色と白のボーダー柄(横縞)のもの,ズボンは灰色のものである旨証言しており,その衣服を着用した被告人を撮影した画像に照らせば,周囲が多少暗かったとしても,それらを単に黒っぽい色と表現することはないのではないかという疑問があり,これも,被告人が犯人であることと整合しない事情である。)。
4
事実④について

本件目撃者らは,犯人の特徴について,本件犯人は年齢が30代の男性,身長が被害者と同じくらい,小太り又は中肉中背,顔が下ぶくれ又は丸顔という被告人と矛盾しない特徴を証言している(なお,aは,たれ目であったという被告人とは整合しない犯人の特徴も証言しているが,aの犯行目撃状況を見ると,周囲は暗く,犯人は被害者と暴力を伴う激しい喧嘩をしていたのであるから,aが,犯人の目の形を識別できる程度に犯人を注視できたのか疑問であるので,犯人がたれ目である
と断定できず,被告人の風貌が犯人の特徴に関するaの上記証言と矛盾するとまではいえない。)。しかしながら,本件目撃者らが証言する特徴自体はごくありふれたものにすぎないから,この事実が被告人が犯人であると証明する方向に働く程度は低いものである。
5
総合評価

以上によれば,認定できた事実①,②及び④は,それぞれ単独でも,被告人が犯人であることを一定程度推認させる,すなわち,被告人が犯人であると証明する方向に一定程度働く事情である。しかしながら,事実②は,前記認定のとおり,被告人が本件当夜に本件自転車を使用した可能性が高くない以上,事実①と事実②が重なっていてもその評価は限定的なものにとどまるし,事実④は,被告人が犯人であるとすれば整合する事実にすぎない。したがって,被告人の弁解について検討するまでもなく,事実①,②及び④を組み合わせた全体としての事実関係について総合評価しても,被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない,あるいは,少なくとも説明が極めて困難であるとはいえず,被告人が犯人であることについて合理的な疑いを差し挟む余地がない程度の立証がされたとはいえない。第4

結論

以上の次第で,本件公訴事実については,犯罪の証明がないから,刑事訴訟法336条により,被告人に対し無罪の言渡しをする。
(検察官本田恭子及び同曽根田一輝出席。求刑

懲役18年

令和元年5月31日
横浜地方裁判所第6刑事部

裁判長裁判官

田村
裁判官

野村政喜充
裁判官

治部宏樹
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